美女と野獣[オリジナル版] 背表紙
こころの知恵

読書感想文で恋愛について語るときの基礎知識

『美女と野獣』という題名は広く知られていますが、今日の日本で、原作を知る人はほとんどいません。たいていは、「ディズニー映画で見ました」という答えが返ってきます。また、一般に「美女と野獣」といえば、民話をもとにしたディズニー映画と考える人が多いようです。

しかし、それは誤解と言わねばなりません。物語の歴史を遡ってゆくと、その源には、著者も刊行年もはっきりした文学作品があるからです。

『美女と野獣』(La Belle et la Bête)というタイトルの創出者──つまり最初の『美女と野獣』を書いたのは、18世紀フランスの作家ヴィルヌーヴ夫人(1685-1755)です。当初それは、1740年にオランダのハーグで刊行された物語集『アメリカ娘と洋上物語』の第一話として書かれました。

ジャズのことばかり考えてきた 背表紙
Created with Sketch. 働き方の知恵

スイングジャーナル編集長が見たチック・コリア

彼に初めて本格的なインタビューをしたのは一九七一年の夏。当時の彼は、「サークル」という名のカルテットを作って間もない時でした。ロサンゼルスに滞在中、メンバーをホテルに呼んで、まだ聞いたことのない彼らの音楽を想像しながら手探りで質問をしました。取材をひと通り終えると、チックがこれから近くでコンサートをするから来なよと誘ってくれたんです。もちろん、その足で聞きに行きました。誌面作りを想像しながら最後まで聞いていると、いきなりチックが「このバンドは今日で解散です」というアナウンスをしたんですね。インタビューの時はそんな素振りも見せなかったので、もう腰を抜かしたわけです。

その翌年、今度はスイスのモントルー・ジャズ・フェスティバルでチックと偶然一緒になったんです。そうしたら彼が「ミスター・コヤマ、サークルというバンドでは素晴らしいことをやったつもりだったけど、やっぱりお客が聞きに来てくれないと継続はできなかった。あの時は悩んだけど、でも今は新しいバンドができて、聞いてくれる人の心にスーッと入っていくような音楽を作っている」と言うわけです。彼は、モントルーでは新人のベーシストと一緒にスタン・ゲッツのカルテットに参加していて、新しいバンドはその新人らと組んだということでした。新人ベーシストの名はスタンリー・クラーク。当時、二十歳そこそこでしたが、ゲッツのステージで演奏しているのを聞いて、わたしもその凄さに驚いたところでした。それで、興奮してスタンリーに取材を申し込んだんですね。とにかくその演奏を讃えて、チックとのバンドのことも聞くと、アメリカに帰ればアルバム用に録音した音源があるというんです。ならば聞かせて欲しい、と急遽飛行機に同乗してニューヨークについて行ったわけなんです。我ながら、この行動力には呆れますが、ジャズに対しての興味だけはどうしても一直線になってしまうから仕方がない。それで、彼のアパートで、吹き込まれたばかりのテスト盤に針を落としてもらった。その音には本当に鳥肌が立つ思いで、一瞬にして気に入りました。サークルの音とはまったくちがう、これまで聞いたことがない音だった。チックの言う通り、音がスーッとわたしの中に入ってきたんです。

医療ケアを問いなおす 背表紙
身体の知恵

医師は「疾患」を診断し、患者は「病い」を経験する

私が以前出会った末期腎不全患者の話から始めよう。この方は、高齢の物作りの職人であったが、末期腎不全と診断され、人工透析を受けていた。正式には血液透析(HD)と呼ばれるその療法は、週3回、1回4〜5時間程度、病院の透析室に通って透析を受けるものであったが、この方は、透析のために十分な時間がとれなくなり、また手の感覚も鈍ってしまって、仕事であり生きがいでもある物作りが思うようにできず、とても辛いと言って、別の病院から転院されてきたのである。

医学的には、種々の検査データに基づいて「末期腎不全」と診断され、治療もされていたが、この方にとっては、「末期腎不全」というこの疾患は、透析に時間を取られ、手の感覚も鈍って、仕事であり生きがいでもある物作りが思うようにできない、とても辛い病いであった。この辛さは、この方にとって物作りが仕事であり生きがいでもある一番大切なものであったがゆえに、この方が経験していた辛さであり、末期腎不全患者であれば誰もが同じ辛さを経験するわけではない。彼の願いは、ともかくも自分の好きな物作りが最期まで続けられることであった。それ以外には何も望まないとも彼は語っていた。

「末期腎不全」という疾患は、検査による種々の数的データによって客観的に特定され、医学的に診断される。しかし、この方の病いの辛さは、彼が物作りの職人であり、物作りが生きがいでもある一番大事なものであるがゆえの、一般的なものとしては捉えることのできない彼固有の辛さであって、しかもそれは、客観的な数的データとして表現されるようなものではない。したがって、検査データの数値だけを見ていたのでは、彼に特有の病いの辛さは到底理解できない。しかし、この病いの辛さを受けとめたうえでなければ、彼にとって効果的な治療も、彼のためのより良いケアもできないことは、少しでも医療に携わった方であれば、よくご存じのことであろう。

志士から英霊へ 背表紙
社会の知恵

天皇家の墓はどのように作られてきたのか?

六世紀以前の天皇(まだこの呼称は無かったが)の墓は、小高い丘を築いて造営される巨大なものだった。エジプトのファラオや中国の皇帝に見られるのと共通する、王権の威信を視覚的に示す目的だったと考えられている。ところが、七世紀に仏教が広まると墓は次第に小さくなり、九世紀以降は寺院に塔を設ける程度になっていく。天皇は自分たちの先祖の墓に詣でて祀る行為をしていない。

京都の南東郊にある泉涌寺は一二四二年に四条天皇の葬儀を執行し、十四世紀には北朝天皇の葬儀を独占的に実施して以来、「皇室専用」となる。墓地も、十四世紀以降は後深草天皇をはじめ十二名の天皇が伏見にある深草北陵に、十七〜十八世紀の天皇は続けて十一名が当時は泉涌寺境内の月輪陵に葬られている。光格天皇からの三代も、現在の正式名称こそ違え、場所としては同じ泉涌寺に墓が営まれた。ただし、墓は仏教式に遺体を火葬して遺骨の状態で葬るための場所にすぎず、先祖の霊魂は墓ではなく、宮中祭祀や仏教寺院での供養によって祀られた。

他方、天皇の墓はもともと仏教寺院とは別に造営されていたことを再認識し、それを顕彰しようという思想運動が、儒学・国学の側から提起される。その象徴として初代の神武天皇の陵墓探しが始まる。徳川光圀は幕府に神武天皇陵の整備を建白したけれども、そもそも神武天皇の墓がどこにあるのかすらわからなかったために具体化しなかった。一八三四年には徳川斉昭が、光圀の遺志を継承して修築を建議している。

バー「サンボア」の百年 背表紙
社会の知恵

その昔、男ばかり集まるバーがあった──サンボア創業の地・神戸を訪ねて

この旅の初めに私は、コウベハイボールの思い出とともに神戸に来た。

一月の末とはいえ、そう気温は低くない。低くはないがときおり風もあり、日陰に入るとやはりひんやりと肌寒い。午前十一時三十分、阪急電鉄神戸三宮の駅前。さすがに平日の昼時分とあって、そろそろ早めの昼食を摂ろうとビジネスマンたちがお目当ての店にでも向かっているのか、右へ左へと行き交っている。このあたりは土曜や休日になると街の様子ががらりと変わり、買い物客や観光客で行き交う人々の服装の色彩もにぎやかになる。今ではここ三宮が神戸の中心になっている。「今では」と書いたのは、サンボアができたころはもう少し西に神戸の中心街があったからだ。

私がこの町から足が遠のいてもう二十五年以上になる。現在の朝日ビルは、当時の面影を少しも残してはいない。平成二(一九九〇)年に取り壊され、すっかりモダンに建て替えられたからだ。

対面的 背表紙
こころの知恵

動物にも顔はあるか

人間以外の動物にも顔といえるものがあるのだろうか。顔を単なる身体部位(人間なら「顔にあたる」と考えられる部位)としてではなく、いま述べた精神性や社会性や倫理性を帯びた領域として捉えるとき、動物にも顔があるということはけっして自明のことではない。われわれはふつうに犬の「顔」や猫の「顔」を話題にするし、ときには彼らの「表情」にまで言及するが、よく考えればその根拠は定かではない。そこに眼(のようなもの)があり、鼻(のようなもの)があり、口(のようなもの)があるという生理学的事実と、それをベースとしたナイーヴな擬人化が、この仮定を支えるすべてであるようにすら思われる。もちろん問題となる動物がヒトに近いかどうかにもよるだろう。ミミズの「顔」といってもピンとこないが、サルやチンパンジーの「表情」となるとがぜんリアリティーは増すからである。ヒューマン/ノンヒューマンという区分は、この点では(この点でも?)明らかに粗い。

動物にも顔はあるかというこの問題は、いわゆる動物論(あるいは動物哲学)の議論でよく取り上げられるトピックのひとつである。「人間中心主義的(anthropocentric)」とされる伝統的な西洋の思想家たち──デカルトからハイデガーまで、ととりあえずは言っておこう──は、このタームで問いを立てたわけではないが、彼らがこれに否定的に答えたであろうことは容易に推測される。一方、動物の権利や「解放」を説く論者たちの答えが肯定に傾くであろうこともまた想像に難くない。

ジャック・デリダは、レヴィナスですら──デカルトやカントの理性主義からあれほど距離をとり、顔(「裸」の顔)の倫理性にあれほどこだわったレヴィナスですら──動物に顔があるとは認めなかったと言う。レヴィナスはじつは動物についてはほとんど論じていないのだが、デリダに言わせればこの沈黙じたい示唆的である。レヴィナスのいう「顔」はあくまで人間の「顔」なのである。

法学の誕生 背表紙
社会の知恵

日本の近代化の鍵は「法」にあった

タウンゼント・ハリス

明治維新の10年余り前、1857(安政4)年11月6日、当時九段坂下にあった蕃書調所で、幕府の5人の外交担当者、土岐頼旨、川路聖謨、鵜殿長鋭、井上清直、永井尚志が、アメリカの使節タウンゼント・ハリスと面談していた。ちなみに、永井尚志は三島由紀夫の高祖父にあたる。蕃書調所は、前年の1856年に洋学の研究・教育およびその統制の機関として幕府が設立した組織である。それまで幕府の教学機関は、儒学を対象とする昌平坂学問所だったが、もはや洋学摂取の必要性を無視できなくなっていた。今日で言えば研究所のような組織だが、ここがハリスの江戸滞在中の宿所にあてられた。寝室や居間のほか専用の手洗所や湯殿も作られ、寝室には寝台も用意された。

ハリスは、アメリカ合衆国の初代駐日領事である。1853(嘉永6)年にペリーの率いる黒船が来航し、翌年、再度来航したペリーとの間で、日米和親条約が横浜で締結された。その第11条に、米国が下田に領事を置くことができる旨が規定されていた。ハリスは東アジアで貿易業に従事していたが、この規定を知り、猟官運動のすえ初代の駐日領事の地位を射止めた。そこで、1856(安政3)年に来日して、通商条約を締結するための交渉を始めたのである。

翌1857年7月、ハリスが下田上陸以来求めていた江戸上府がようやく許された。彼は10月に江戸城に入り、第13代将軍家定に謁して大統領ピアースの親書を渡した。また老中首座の堀田正睦邸に赴いて、世界の情勢を語り、アメリカと通商条約を締結することがいかに日本にとって利益になるかを雄弁に説いた。ハリスの演説は2時間を超え、堀田はじめ海防掛の面々は感銘を受けたという。ハリスは条約の主たる内容として、第一に、公使を首都に駐在させること、第二に、開港と通商の自由を要求した。そこで、堀田が部下に命じて、通商条約の前提となる外交上の問題や手続について、種々質問をさせたのである。

発声と身体のレッスン 増補新版 背表紙
身体の知恵

声の筋トレで感情豊かに! 5つのポイント

感情を変えると、声は変わります。「声はどうしたら変わるの?」という言葉を、イライラして怒りながら言ったり、わくわくして喜びながら言ったりすれば、言い方は変わります。

ここで、「感情」ではなく、「こえ」の何を変えれば、「声はどうしたら変わるの?」という言葉の言い方は変わるでしょうか?

ワークショップでは、ここでじっくり考えてもらうのですが、先に答えを言います(5分は考えてください)。

まず、「大きさ」です。「大きさ」を変えれば、「声はどうしたら変わるの?」という言い方は変わります。読んだ後、「なーんだ」と思わないように。あなたは、ふだん、何種類の「こえ」の「大きさ」を使い分けていますか? 無自覚に、なんとなくしゃべっていませんか? 話す内容ではなく、声の「大きさ」が場に不釣り合いで、周りから浮いている人は知りませんか? それは、「大きさ」に無自覚な例です。

幸福になりたいなら幸福になろうとしてはいけない 背表紙
こころの知恵

思考は単なる物語である

■自己批判の思考はほとんど役に立たない

ACT(アクト/アクセプタンス&コミットメント・セラピー)では、思考が事実であるかどうかは重視しない。それよりずっと大切なのは、その思考があなたの助けになるか否かだ。助けになる思考であれば、注目するだけの価値がある。そうでないなら、それを気にかける必要がどこにあるだろうか?

私が職場で手痛いミスを仕出かしたとしよう。私の心はつぶやく、「お前はダメな奴だ!」これはあまり助けにならない。状況を好転させるためにすべきことを何も教えてくれず、ただやる気をくじくだけだ。自分を卑下しても何も起こらない。私がすべきことは行動を起こすこと、能力を向上させるか、誰かに助けを求めることだ。

あるいは、私が肥満気味だとしよう。心の声は言う、「お前は脂肪のかたまりみたいだな! 自分の腹を見てみろ、醜いったらありゃしない!」これもあまり助けにならない。自分を責め、過小評価し、やる気をなくさせるだけだ。食べるものにもっと注意を払おうとか、エクササイズをしようという気も起きず、自己嫌悪に陥るだけである。

人生の教科書[おかねとしあわせ] 背表紙
こころの知恵

人生100年時代の「お金と幸せ」を考える

一つの山を登りながら、次の山の準備をしないと間に合わない
いま一度、断言したいと思います。

これからのお金は、「物語」を生み出すことに投じたほうがいいことを。どれだけ「物語」を増殖させ、どれだけ人との絆を豊かにできるのか。これがあなたの「中くらいの幸せ」感を決定します。

コミュニティに加わり、コミュニティを育て、コミュニティの中で「懐かしがられる人」でいるためにこそ、お金を使いましょう。

そして、「賑わい(コミュニティ)を買う」の章でも強調したように、複数のコミュニティに足や手を突っ込み、主軸の仕事とは別に、人生を複線的に生きる努力をするといいと思います。

明治の昔なら、一つの人生で一生を終えることができました。