Created with Sketch. 自然の知恵

自分の時間を持つことは幸福なのか 狩猟採集民の思想に学ぶ

†自然観の違い

尾本 文明は古くは約1万年前から始まり、最近になってようやく土地に関する法律などが整備されました。例えば18世紀にオーストラリアに渡った英国人は、ここは「無主の地」(テラ・ヌリウス)なのですべての土地はヴィクトリア女王に所属すると言って、先住民アボリジニから土地を奪います。アボリジニにしてみれば「土地は個人が所有するものではなく、みんなで利用するものだ」と考えている。彼らに現代の法律を押し付けるというのは、時代錯誤と人権侵害の最たるものです。

狩猟採集民と農耕民では、現代文明に親しんだ時間の長さが違っており、前者はそれが極めて短い。それにもかかわらず両者を同じスタートラインに並ばせ、一斉に走らせるというのはフェアでない。不公平です。

山極 もちろん歴史が違うということもありますが、両者ではそもそも文化が違うと思うんです。これはコミュニケーションの問題とも関係してきます。まず、狩猟採集民と農耕民では自然観が違う。狩猟採集民は移動生活を前提としていて、土地を所有しない。自然界のものに手を加えずにそれを自分たちの食料とし、自らの手で食物になるものを栽培しない。

一方で農耕民は土地に投資をし、栽培したものを守らなければならない。狩猟採集民が森の友と思っていたものを、農耕民は畑を荒らす害獣として排除しなければならない。食べるために殺すのではなく、土地・作物を守るために殺す。悪いものを殺すということはやがて、人間に対しても行われるようになります。たとえば、土地を侵害してくる人間を排除するとか。そして、投資した土地で作物を収穫したら未来にまた投資する。これはまさに資本主義の根本原理ですよね。収穫物をすべて食べてしまえばそれで終わりですが、そこで種を残しておいて次の年に蒔く。さらには、土地を広げて種を蒔く。これは「産めよ殖やせよ」という自然観・人間観ですね。

それではなぜ、農耕民はどんどん増えていったのか。農耕という労働は性別、年齢を問わず平等にできる。もちろん人によって身体の強さが違うので、仕事にかかる労力や時間は違いますが、質としてはすべて同じです。一方、狩猟採集では個人の技量がまったく違いますから、平等というわけにはいかない。しかも狩猟採集というのは基本的に個人労働で、役割分担をすることはない。ですから優秀な猟師もいれば、そうでない猟師もいる。彼らが平等な分配に固執するのは、各人の差が目立たないようにするためです。彼らはそのようにして、集団内に権威をつくらないようにした。しかし農耕ではみんな同じ仕事をしているため、権威ができても構わない。このように、狩猟採集民と農耕民では人間観・社会観・自然観がまったく違う。狩猟採集の先に都市はできないけれども、農耕の先には都市ができる。これは歴史が明らかに示していることです。

農耕民は余剰のものを使い、投資でさらに拡大していく。その余剰を職能集団に投資し、武力を高めていくうちに、生産活動には携わらない別の職能集団もできてくる。社会における職業の分担、階層がどんどんできていき、やがて君主制が生まれる。これは必然的な流れだったのではないかと思います。農耕をしていたほうが人口の増加が早く、武力も増強される。そのため、狩猟採集民が圧迫され始めたのではないかと思います。

ぼくはゴリラを追ってますが、彼らと一緒に生活をしてみなければわからないことがたくさんある。我々はずっと都市文化に染まっているので、やはり一緒に生活してみないと彼らの世界観・モラルはわからない。

†狩猟採集民こそが最古の先住民

尾本 私は次のようなことを言いたい。多くの狩猟採集民は今や民族としての絶滅の危機に瀕している。動物の場合、絶滅危惧種を大騒ぎして保護するのに、なぜ人類の絶滅危惧種は放っておくのか。狩猟採集民は格差の最下層にいて、ひどい人権問題に悩んでいる。私がそれを強く実感したのは、次のような光景を目の当たりにした時です。

フィリピンのミンダナオ島では最近、多国籍企業によるニッケルなどの鉱山開発が激しくなって、山地に住んでいた狩猟採集民ママヌワ族は立ち退きを余儀なくされています。私が30年も前に行った遺伝子解析によって、ママヌワ族は、フィリピンのファースト・ピープルであるネグリト(「小黒人」を意味する)のグループの中でも、もっとも古い渡来者だと推定されています。

山極 先住民ということですか?

尾本 ええ、フィリピンは多民族国家で、首都マニラなどにいる多数派フィリピーノ(タガログ族)の他に100を超える言語で区別される先住民が住んでいます。ママヌワ族はネグリトの一部族で、数万年前からミンダナオ島に住んでいたと考えられます。鉱山開発会社は、居住地を立ち退かされたママヌワの人たちに対して収益の1パーセントに当たる補償金を支払うことになっていますが、中にはこれを払わない悪徳業者もいる。

日本の住友金属鉱山は、捨てられていた低品位のニッケル鉱を純度の高い製品に変える技術を開発してフィリピンでも評価されています。しかし、ママヌワ族のために支払われた多額の補償金は、金目当ての地元の有力者の格好の餌になり、さらに新人民軍(NPA)という非合法組織などからも狙われて地域の治安を不安定にしています。最近(2017年1月20日)、ママヌワ族の若いリーダーが暗殺されるというショッキングな事件が起きましたが、殺し屋はいまだに捕らえられていないし、軍隊も警察もみんな知らん顔をしている。

私は、かつて自分の研究の被検者だったママヌワ族の人々に恩返しするつもりで、人権問題を調査しています。しかし、現在ミンダナオ島ではイスラム過激派のテロ活動が激化したため戒厳令が敷かれ、現地に行くことができません。

日本は戦後の建築ブームでフィリピンから大量のラワン材を輸入し、そのためアジア有数の熱帯降雨林が破壊されてしまいました。今、銅やニッケルなどの希少金属がどんどん掘られ、日本の工業にも貢献している。

フィリピンは、森林や鉱物などの天然資源に非常に恵まれた国でした。過去形で言わなければならないのは残念です。皮肉にも、豊富な資源があだになってひどい環境破壊や人権侵害が起き、治安も悪い国になった。「資源の呪い」の典型例です。南の発展途上国は、なまじ資源があるから収奪の対象にされました。しかも、天然資源の取引価格には、生態系や生物多様性、先住民族の伝統文化など、本来は極めて価値の高いものが含まれていない。こうして資源国は、先進国によって資源を奪われ、土地は荒廃し、貧困は増大してゆくが、先進国にはその負債を負っているという意識がありません。この問題について、恩恵にあずかった日本の皆さんはほとんど無関心です。現状を知らないからです。それを知っている人類学者には、一般の方々を啓発する社会的責務があるのではないか。

さらに人類学者が寄与できる問題があると思います。ママヌワ族などの狩猟採集民がフィリピン最古の先住民であることはDNAで証明されています。国連の活動の一環として「先住民族世界会議」がありますが、各国の先住民の代表は、ほぼすべて農耕民です。たとえばフィリピンから国連の会議に出席するのは、ルソン島北部のイフガオ族やイゴロット族など、声が大きく団体で行動する農耕民の人たちですよ。ネグリトの人々のような狩猟採集民はおとなしくて、農耕民を怖がっているから、のけ者にされている。私は人類学者として、このことを政治学者や法律学者に訴えたいのです。

山極 アフリカの熱帯雨林でも同じことが起きています。コンゴ民主共和国の東部にあるカフジ・ビエガ国立公園は低地部(標高600〜1200メートル)と高地部(1800〜3300メートル)を結ぶ6000平方キロメートルからなる広大な熱帯雨林を有し、ピグミー系のトゥワ人たちが森のあちこちで狩猟採集生活を送っていました。ところが、ベルギーの植民地時代に金、銅、鉄の鉱山としていたるところで事業が始まり、トゥワ人たちは自由に活動できなくなりました。さらに、1970年に国立公園となり、彼らは森林から強制的に移住させられて、周辺の農耕民の村に寄宿せざるを得なくなったのです。

狭い土地を与えられてさあ農耕で生計を立てよといわれても、どうしていいかわからない。それで、こっそり森に出かけて密猟をしたり、薬草をとってきて捕まる者が後を絶たなくなりました。国立公園当局はトゥワ人たちを公園の監視員やゴリラツアーの案内人として雇用していますが、多くの人を養うことはできません。そこで、我々は1992年に理解のある現地のガイドを中心にしてポレポレ基金というNGOを立ち上げ、トゥワの人々の職業訓練や生産活動への参加促進、保護区の理解を求める活動を行ってきました。

ところが、1994年に隣国ルワンダの内戦が波及して膨大な数の難民が押し寄せ、続いて終わりのない内戦が始まりました。森は兵士や難民によって踏みしだかれ、密猟が横行しました。21世紀になってやっと戦闘は下火になりましたが、今度はコルタン(コロンバイト―タンタライト)と呼ばれる、パソコンや携帯電話に使われている伝導性の高い金属がこの地に豊富にあることがわかり、多くの人々が採掘に殺到しました。こういった急激な変化で最も大きな被害を受けたのがトゥワの人々なのです。我々はエコツーリズムを利用して何とかトゥワの人々が森で安全に働ける道を模索していますが、政情が不安定なのでなかなか思うようにいきません。もっとこの現状に世界が注目してほしいと思っています。

†狩猟採集民に何を学ぶか

尾本 狩猟採集民に学べ、と主張していますが、具体的に何をするのか。今さら彼ら彼女らと同じ生活をすることは無理ですが、平等や平和、倹約の勧めなど、彼らの生活から精神的に学ぶべきことはある。経済や国際政治の面でも、「スモール・イズ・ビューティフル」の理念を「よし」として、南北格差をできるだけ小さく、先進国が儲けすぎた利益の「平等分配」をはかることなどできないものでしょうか。

山極 平等ということに関して、面白い話があります。ぼくが付き合っているピグミー系の狩猟採集民は自分でも道具を持ってるんだけど、狩りに行く時には自分の道具を使わずにわざわざ仲間の道具を借りていく。それは、仲間に獲物を分配するという前提があるからです。彼らの間では、あらゆるものは共同と見なされている。これは我々にとっても、すごく参考になることです。一人だけでなく誰かと一緒に何かをやったほうが自分も相手も幸せな気持ちになれる。狩猟採集民は、そういう状態をつくりだすための仕掛けをたくさん持っている。

ところが今、我々が生きている現代では、自分が充足するための仕組みはいくらでもあるんだけど、他者と共同して両方が楽しくやるための仕組みはなかなか見つからない。それは自分で探し出し、相手とも合意しなければならないのでハードルが高い。しかし狩猟採集社会では、そういう仕組みがあらゆるところに張り巡らされている。我々は、それを学ぶ必要があると思います。

尾本 そうですよ。これは「裸で暮らせ」という意味ではない。狩猟採集民の生活、アニミズムの思想には、限界を超えて発展し続ける文明にとって、参考になる点がいろいろある。とくに言いたいのは、自然に対して謙虚になれということです。

山極 あと狩猟採集民から学んだほうがいいと思うのは、時間の概念です。現代人は自分の時間をつくることに四苦八苦しているわけですが、自分の時間をたくさん持っていたら本当に幸福なのか。狩猟採集民には自分の時間なんてほとんどなくて、一日のほとんどは他者といる。つまり彼らは、何かあったらすぐに相手に反応できるという構えを持っているわけです。今、西洋風の生活スタイルが現代人の中に染み込んできて、プライバシーが重視されている。車の中で一人になれる。あるいは自分の好きなものを買ってきて、一人で部屋に戻って「美味しい」と言いながら食べる。さらには一人で映画を見に行き、ショッピングに行って好きなものを買う。これらは自分の時間だと思っているかもしれないけど、実は孤独な時間です。もちろん一人でも楽しめることはあるでしょうけど、それは他の人とともに生きる時間ではない。

人間には本来、もっと生き生きとした時間があったはずです。それは他人とともに過ごし、お互いに歩み寄れる時間だったわけですが、現代の文明社会はそれをコストにしてしまった。自分の時間は自分で測れますが、他人が入ってくるとそういうわけにはいかず、コストになってしまう。そこでは、他人と過ごす時間をプラスと捉える思考方法が必要だと思います。狩猟採集民はそういう時間の概念を持っているわけですが、我々はそれをみんなコストにしてしまった。我々はもう一度彼らを見習い、他者とともにいる時間を価値づけなければいけない。

そのよい例はお母さんと赤ちゃんです。お母さんは赤ちゃんのためにいつも身構えてなくてはいけませんが、その一方で赤ちゃんといる時間も楽しいわけですよ。でもそれをコストとして捉え、「私には赤ちゃんがいるから自分の時間を使えない」と思ってしまったら損ですよね。そこではやはり、赤ちゃんと一緒にいることをプラスと捉える思考方法が必要です。子育てに限らず、これはいろんな場面で出てくることですよね。

尾本 助け合いの精神が大事です。ヒトは本来150人ぐらいの集団で生活していて、互いに仲間意識があるから、強制されなくとも相手を気遣う。インターネットで結ばれた何千、何万人の間では、それはなかなかできないですよね。

(『日本の人類学』より抜粋)

書籍データ

日本の人類学 表紙
概要遺伝子研究を導入して人類の進化をたどってきた東大の人類学と、独自の霊長類研究を展開してきた京大の霊長類学。日本の人類学は、彼らの切磋琢磨によって世界をリードしてきた。東大分子人類学の泰斗である尾本恵市と、京大霊長類学を代表する研究者である山極寿一が、人類学のこれまでの歩みと未来を語り尽くす。人類はどこからやってきたのか。ヒトはなぜユニークなのか。ユニークさゆえに生じる人間社会の問題とはなにか。新しい人類学を求める視点から鋭く論じる。
タイトル日本の人類学
著者名尾本恵市, 山極寿一
出版社筑摩書房
刊行日2017/11/7
判型新書判
頁数288
定価本体価格880円+税
ISBN978-4-480-07100-2