家族の秘密 背表紙
こころの知恵

読み聞かせ絵本で、子どもは親の「秘密」に気づく。

親たちは、しばしば絵本を通じて、子どもたちとコミュニケーションをとる。知らないうちに、親が秘密にしていた心配事や懸念についても。実際、絵本作品のなかには、考えうるすべての家庭的状況が見いだされる。それは旅行、旅立ち、別離、転居、祖父母の存在や不在、隠し子、幽霊屋敷、色々なアクシデント、出所のわからない金銭、などである。

親たちは、明らかに、意識的にこだわっている美学や価値観に従って、読み聞かせる絵本を選択する。だが、彼(女)らはまた、自分たちに隠された欲望や埋もれたトラウマ、あるいは自らの親たちから応答もないまま長らく放っておかれた問いによって導かれてもいる。

読者は、そんなことは大して重要なことではないと考えるかもしれない。だが、友人たちから贈られた本は別にして、家族はそれぞれ、こんなふうに絵本を購入する。子どもたちは、そのため、数多くの多様な物語に対面することになる。家族における出来事を知らないうちに懸念していた親からのプレゼントは、それゆえ、その他の贈り物のなかでも、いくらか「滲みこんで」いる可能性は大いにある。

馬・車輪・言語(下) 背表紙
社会の知恵

移動手段の革命は人類に何をもたらしたか?

輸送技術の進歩は、人間の社会・政治生活における変化の原因としてきわめて大きな影響力をもつ。自家用車の導入は、郊外の住宅地、ショッピングモール、高速道路を生みだし、重工業を変貌させ、石油の莫大な市場を誕生させ、大気を汚染し、家族を各地に四散させ、若者には逃げだして性交渉するための熱を帯びた動く空間を提供し、個人の地位やアイデンティティを力強く表明する新たな方法をこしらえた。

人が馬に乗り始め、重い四輪荷車(ワゴン)や二輪荷車(カート)が発明され、スポーク型車輪の二輪戦車(チャリオット)が開発された歴史には累積的効果があり、展開の速度はゆっくりではあったものの、最終的には自動車と同じくらい根底から影響をおよぼすものとなった。そうした影響の一つは、ユーラシアを孤立した文化が点在した状態から、一つの相互に関連したシステムへと変容させたことだった。それがどう生じたのかが本書の主眼だ。

大半の歴史家は、騎馬と初期の車輪付き乗り物によって生じた変化をリスト化し始めると、まずは戦争のことを思い浮かべる。しかし、馬を最初に家畜化した人びとは、馬を食糧として考えていたのだ。馬は冬季に肉を手軽に手に入れられる供給源だったのだ。馬はステップで冬中ずっと自分で餌を探せるが、牛と羊は水と飼い葉を与えてやる必要があった。人びとが家畜として馬に親しみ、おそらく比較的おとなしいオスの血統が確立されたのちに、誰かがとりわけ従順な馬を見つけてその背に、冗談半分で乗ったのだろう。

坐の文明論 背表紙
身体の知恵

ただ坐りつづけるだけの行為がアジアでつよい象徴性をもった理由

身体の姿勢が示す文化的な象徴性をしらべていくと、立位姿勢と地面に坐る平坐位姿勢とでは、それぞれの姿勢が内包する情報に、まったくことなる生き方が暗示されていることがわかる。身体的な経験としては、直立姿勢も、坐姿勢も、どちらもあらゆる人類が共通しておこなう行為であるにちがいない。しかし、それぞれの姿勢に対して、「主人の姿勢」「奴隷の姿勢」「戦士の姿勢」あるいは「聖者の姿勢」というような一定の価値を与え、それらを彫刻し、絵画に描き、あるいは文学的な語りによって、人間の生き方を一定の方向へと駆り立てるようなことが起こる。

わたしたちが生活しているこの社会にも、物質文化のひとつひとつに、それらを扱い、身につける人間の身体像が想定されていて、多くの場合、わたしたち生活者はそのことに無自覚なまま、近代文明の安楽さを享受している。近代化とは西洋化と同義語であるから、近代的な生活の背後には西洋人の身体技法が潜在していて、その無形文化が形づくる身体感覚は、わたしたちの思考と行動を支配することになる。

たとえば、日本人が日常的に身につけている「洋服」とは「西洋服飾」の意味であり、日本の伝統服とはまったくことなる身体感覚をつくる。西洋服飾の裁断形式はフォーマルなものになるほど明確な身体像を持っており、被服成形の基準となる「服飾ボディ」に布をのせ、それらを立体的に縫い合わせて形づくられる。頭部と手足のない胴体だけの「ボディ」は、またの名を「トルソ」とも呼ばれ、その原型はギリシア彫刻の身体像に由来する。

線量計と奥の細道 背表紙
こころの知恵

「3.11」に向き合う真っ直ぐな姿勢、野ざらしの覚悟

かつて私は、「叫ぶ詩人の会」という演劇的なバンドを組んでライブをしていた時代がある。語りや歌の内容は旅先で体験したことからの個的な、内側の葛藤を訴えたものが多かった。東西冷戦構造に大転換を呼びこんだ東欧革命。地雷原を進むことになったカンボジア。生命について思いを馳せたインドやガラパゴス諸島。そうした場所で出会った人々の表情や言葉から、人間を考え、人間を叫び、人間を歌おうとしたのだ。文字をつづる前に、私はまず旅人であった。

それなのに、『奥の細道』の現代語訳にとりかかったこの中年男は、仕事場から出ることもなく、資料を横に並べるだけの机上作業者となった。自分の原則に照らすなら、私は身を落としたのだ。

我が国を代表する紀行文を前にして、その道を歩いたこともない人間がなにやら代用品をつくろうとしている。こんな非本質的な行為があるだろうか。いや、こんな怠慢が許されるだろうか。

いったいなにをやっているのか? お前は旅人ではなかったのか?

吉田満 戦艦大和学徒兵の五十六年 背表紙
社会の知恵

『戦艦大和ノ最期』の正しい読み方

ワレ電話一本ニテ督促

私が『戦艦大和ノ最期』をよんだ時、その戦闘場面の映像的な描写と、死に行く人々への哀切のこもった筆致に心うごかされながら、どうしても穏やかによめない場面があった。「間斷ナキ猛襲」という見出しのついた節の終わりのほうの文章だ。

空からの爆弾と海からの魚雷はたたみかけるように大和をおそった。攻撃は波状に押しよせ、第二波の攻撃がおわるやいなや第三波がくる。その第三波で、臼淵磐は直撃弾をあび「一片ノ肉、一滴ノ血ヲ殘サズ……虚空ニ飛散」する。

米軍の雷爆混合の攻撃は戦艦大和の左側に集中、大和の左舷は一部浸水する。攻撃による浸水を食いとめるために、防水区が細かく区切られており、通常であれば防水遮断がなされ、浸水はとめられる。しかし、相次ぐ攻撃により担当する応急科員にも死傷者が出て、防水遮断ができなくなる。

馬・車輪・言語(上) 背表紙
社会の知恵

言語の化石から先史時代はどこまでわかるか

考古学は人間性やかつて生きた人びとの重要性を、そして遠回しながら私たち自身の重要性を認識する一つの方法だ。考古学は、筆記によって記述されなかった過去の日々の暮らしを調べる、ただ一つの学問だ。実際には、それが人類の生きてきたほとんどの時代なのだ。考古学者は文字のなかった時代のもの言わぬ遺物から、驚くような私生活の細部までを探り当ててきたが、文字による記録を残さなかった人びとについて、彼らの考えや会話、あるいはその名前について知りうることには限界がある。

こうした限界を克服し、先史時代の人びとの実際の暮らしにとって重要だった価値観や信条を再び明らかにする方法はないのだろうか? 手がかりはほかの媒体にも残されていないのか? 多くの言語学者は残されていると考える。そして、その媒体は私たちが日々使う言語そのものなのだという。人間の言語には多くの優れた化石が含まれている。言語は、驚くほど昔の話し手たちの名残なのだ。こうした言語上の化石は、「不規則」な形として教師が教え、私たちはただ考えもせずにそれらを学ぶ。〔英語の〕過去形は通常、動詞に-t や-ed を加えてつくることは(kick/kicked, miss/missed など)誰もが知っているし、動詞によっては語幹(ステム)の中心にある母音を変化させる必要があること(run/ran, sing/sang など)もわかっている。しかし、この母音変化がもともとの古い過去形のつくり方であったことは、総じて習わない。それどころか、動詞の語幹の母音を変化させることは、おそらく5000年ほど前には過去形をつくる通常の方法だったのだ。それでも、その当時、人びとが何を考えていたのかについて、このことからわかるものは少ない。

民主主義を直感するために 背表紙
社会の知恵

パリのデモはなぜゴミをまき散らしながら歩くのか

パリのデモを見て最初驚いたのは、ほとんどの人が、ただ歩いているだけだということである。横断幕を持ってシュプレヒコールを挙げている熱心な人もたくさんいる。しかし、それは一部である。多くはお喋りをしながら歩いているだけ。しかもデモの日には屋台が出るので、ホットドッグやサンドイッチ、焼き鳥みたいなものなどを食べている人も多い。ゴミはそのまま路上にポイ捨て。

デモが終わると広場で代表者みたいな人が何か演説することもある。それを聞いている人もいれば、聞いていない人もいる。みんななんとなくお喋りをして、ナシオン駅から地下鉄に乗って帰って行く。

デモの最中、ゴミはポイ捨てなので、デモが行進した後の路上はまさしく革命の後のような趣になる(単にゴミが散らかっているだけだが)。しかし、パリ清掃軍団がやってきて、あっという間に何事もなかったかのように路上はきれいになる。パリ清掃軍団の清掃能力はすごい。彼らは毎夕、街を清掃している。そうして鍛え上げられた清掃能力がデモの後片付けを一瞬にして終えるのである。これはどこか感動的である。

パリのデモがゴミをまき散らしながらズンズン歩くという事実は、デモの本質を考える上で大変重要であると思う。

対人距離がわからない 背表紙
こころの知恵

親密になるには、少しは演技も必要?

社会的知性の本質は演技すること

人類が人類たるゆえんは、どこにあるのかという問いに対して、二足歩行であるとか、言葉を使うこととか、道具や火を使うことが挙げられてきた。直立二足歩行によって、重い脳を支えることや手を使うことが可能になり、脳の進化が促されたというのも有力な仮説である。実際、視覚にかかわる領域とともに、手の感覚や動きにかかわる脳の領域はとても広く、高度な作業を可能とする動作性の知能の発達は、脳の進化の一つの原動力となったことは間違いない。

もう一つは言語的知能の進化である。言葉というシグナルを用いることによって、人類は高度なコミュニケーションの技と知識を獲得し、それを次代に継承し、発展させることもできるようになった。

だが、人類はなぜそもそも道具を用いて複雑な作業をしたり、高度な言語を操る必要があったのか。そこまで考えたとき、人類の脳をサルの脳を超えるものに進化させた真の原動力が、別のところにあったのではないのかという仮説が浮上する。それが、「社会的知性仮説」と呼ばれるものである。

オカルト化する日本の教育 背表紙
社会の知恵

学校教育に忍び寄るオカルト思想

†教育現場は感動に飢えている

ここ一〇年くらいの間に「江戸しぐさ」の道徳授業への導入や、親学の台頭と並行して教育現場に広まりつつあるものとして、大規模な組体操、1/2成人式、誕生学などが挙げられる。

小中高等学校の運動会などで児童・生徒たちによる組体操は、ピラミッドやタワーなどで次第にその高さを競い合う傾向があった。二〇一四年度には組体操関連で起きた事故が全国で八五九二件(独立行政法人日本スポーツ振興センター調べ)に及んでいる。組体操で起きる事故の中には死者が出たり重傷者に重い後遺症が残ったりした例もある。

名古屋大学准教授の内田良の試算によると一五一人で構成される一〇段のピラミッドだと土台の中央部には一人あたり三・六人分の体重がかかる生徒がいる。中学三年男子の平均体重ではこの荷重は二〇〇キロを超える。現在の学校ではこのような無茶が教育の名の下に行なわれているわけである。

原発とジャングル 背表紙
社会の知恵

原発というエネルギー発生装置が出現したのは人類史の必然か?

「戦後最大の思想家」すなわち吉本隆明氏は、マルクス流の必然 =「自然過程」を頑強に主張してやまぬ人だった。少なくとも経済だけは人間の意向に左右されぬ自然過程だ、その展開に抵抗するのは夢想家だとニベもなかった。この人は「理屈をこねるのが大好き」と自認するだけあって、「経済」と分野を限定しての話になっているが、実はこの「経済」は科学技術が中心をなしていて、氏の言う「経済」とは、物質文明全般にほかならない。

氏の主張には打ち勝ちがたいところがある。ピダハンの世界がいかに魅力的であっても、ではアマゾンに移住して彼らの一員になろうという人はいない。狩猟採集経済以後、人類が獲得したものは物心両面においてとほうもなく巨大多様だったのである。

ところがその巨大な獲得には同時に、様々なリスクや心労や拘束が伴っていた。早い話が富は生活をゆたかにするが、同時に苦の種にもする。精神的な富ならいいだろうと思うのも間違いだ。例えば蔵書は一定数を越えると煩いの種、場合によっては凶器になる。そのことを少なくとも私は去年の熊本地震で体験した。また、人間の労働を省力してくれる技術ならいいのではと思うと、これも違う。交通・通信・情報手段の発達が人間をより一層多忙にして来たことは、各自おのれを省みさえすれば直ちに明らかだ。