音楽放浪記 日本之巻 背表紙
社会の知恵

アジアには愛が溢れていると岡倉天心は云ったけれど……

西洋音楽とは西欧近代の理性主義と進歩主義の写し絵である。とりわけベートーヴェン以後は、神の領域を超ようと、意志的に、前進的に、音を組みあげ、逆に虚無的に挫折したりする作品を量産してきた。他方、アジアの文化芸術はどうか。その理想像は、神と人、真理と現実、梵と我が一体になり、絶対普遍的なものとの魂がじかに触れ合いつづけることにある──。音楽から西欧とアジアの相克を読み解く。

日本的現代音楽とはズルズルベッタリである

「音響が執拗なまでに糊塗された単一方向的な西村作品」「余白なく塗り込まれた極彩色絵巻のような西村作品」──どちらも、『レコード芸術』2007年12月号に載った、西村朗の新しいディスクへの長木誠司氏の批評から。そこで指摘されているのは、まず響きが度外れて厚いということ。それからもうひとつ、一定の音のイメージがベッタリと引きのばされる音楽だということだろう。

そのとおりだと思う。しかし、似たような音が続くというほうの話は、なにも西村にかぎったことではなさそうだ。厚いか薄いか。力まかせか思わせぶりか。そういった差はあるにせよ、武満徹も細川俊夫も石井眞木も佐藤聰明も、バターナイフでレバーペーストをのばすような、もしくは瞑想的境地がひたすら持続するような音楽でこそ映える。

ビジネスパーソンのための一目おかれる酒選び 背表紙
Created with Sketch. 自然の知恵

吟醸酒は、お燗をするともったいないと思っていませんか?

吟醸酒は、その作られ方によっては、いわゆる「燗上がり」がおこり、冷酒では味わえない美味しさが味わえます。では、どのようにして燗上がりする吟醸酒を見分けるのか? その答えは、以下の記事に!

「大将、これお燗にして」

「ダメだよ、お客さん。これは大吟醸だから冷やして飲まなくちゃ」

「そうなの? 俺は燗酒が飲みたいんだけど」

「じゃ、こっちの純米酒にしてください」

「それじゃなくて、この大吟醸が飲みたいんだよ」

「ダメダメ、ウチはね、大吟醸はお燗にしませんから!」

こういう押し問答、よくありますね。とくに酒のウンチクたっぷりの日本酒専門店に多いような気がします。このあとに続くお店の言い分は、だいたい次のようなものです。

「吟醸酒はお燗にすると香りが飛んでしまう」

「純米酒や本醸造酒こそ燗酒にふさわしい」

「大吟醸をお燗にするなんてもったいない」

文化空間のなかのサーカス 背表紙
こころの知恵

「この世界」を組み替えるためのアート

サーカスのどのジャンルにも不可欠なもの、それは「動的バランス」であり、その最たる例が綱渡りだ。とはいえ、「動的バランス」が欠かせないのはサーカスだけではない。文化全体あるいは社会全体にとっても同様である。著者は、サーカスこそが文化や社会にとって「動的バランス」の最高のモデルたりうることを強調する。

サーカス的な演し物やジャンルの起源と本質は、運動と変化の諸過程を全体として意味づけることや、文化における動的バランスを人間が認識するようになったことと、緊密にむすびついている。なにしろ、動的バランスというものは、サーカス芸術の源であるにとどまらない。文化の種々の要素間の動的バランスは、文化の存在と発達の形式となっており、文化面での新たな試みを促してきた。文化は、宇宙に似て、おそらく「爆発」の結果生じるものであろうが、規則的に機能しうるのは、古代の思想家たちが「天のものと地のものの永遠の可変的バランス」と定義づけている、動的バランスという形式においてのみである。しかも、文化パラダイムの最適の交替とはバランスどうしの交替であることを認めるならば、バランスの力学はたんに思考上の比喩にとどまらない。バランスの破壊は、文化の対立へと至り、あるいは錯綜した場合は破局、戦争やテロにも至りかねない。

これに関連して思い起こすべきは、1974年8月7日にニューヨークで起こった有名な象徴的出来事である。この日、世界貿易センターの二つのタワー間にぴんと張られたワイヤーの上を、安全装置をまったくつけずに、綱渡り芸人フィリップ・プティが伝説的な綱渡りを敢行した。フィリップ・プティ当人にとっては、決死物は、月並みな現実にたいする勝利であり、ツイン・スカイスクレイパーの建設時からあこがれていた長年の夢の具現化となった。これにたいして、幾年も経た2009年に撮られたジェームズ・マーシュのドキュメンタリー映画『マン・オン・ワイヤー』では、ワイヤー上の運動は、綱渡り芸人が動的バランスをうちたてるという象徴的行為として示されている。世界で「もっともクリエイティヴな犯罪」と当時称されたものをなしとげた綱渡り芸人をめぐって映画をつくらねばという考えは、おそらく、映画監督の文化・政治問題にたいする関心とも、さらには2001年9月11日というはじまったばかりの新世紀の、もっとも破壊的ともいえる出来事にたいする関心ともむすびついていた。この日、世界貿易センターのタワーがテロリストによって壊滅されたのである。

橋本健二 背表紙
Created with Sketch. 働き方の知恵

離婚と死別がアンダークラスへの入口だった

「アンダークラス」という言葉を知っていますか? 非正規で働く人の数は増加し続け、それは一部の人たちで済まされない数になっている。彼らの存在を「アンダークラス」と名付け、その実態を明らかにした。そのなかでも特徴的なのが、女性のアンダークラスである。そうなったきっかけはどこになるのか? 彼女たちの生い立ちはどのようなものなのか? 綿密なデータをもとにして、その驚くべき数字を明らかにする。

非正規女性の人生をデータからみる

930万人。非正規労働者のうち、パート主婦と、非常勤の役員、管理職、資格や技能をもった専門職を除いた人々の数である。これは就労人口の15%ほどを占める。この階級に属する人々を「アンダークラス」とよぼう。そのなかでも、本稿では、アンダークラスの女性たちが、これまでどのような人生を送ってきたのかをみていくことにする。

SSM調査では、これまでに就いたすべての職業を、無職の期間を含めて尋ねている。しかも結婚したことのある人については結婚したときの年齢、そして離別・死別したことのある人については、そのときの年齢を尋ねている。だから質問紙による調査でありながら、回答者のこれまでの生活歴をかなり詳しく知ることができる。生活歴は配偶関係、つまり未婚・離別・死別のいずれであるかによって大きく異なるはずだから、区別してみていこう。

民主主義を直感するために 背表紙
社会の知恵

いったいこの基地は誰を幸せにするのだろうか?

沖縄民意の反対を押し切り土砂投入が強行された辺野古。政治的な問題を考える時、最初にある素直な直感はとても大切だ。「これは何かおかしい」という感覚が得られたならば、そこからは「なぜこうなっているのか?」という問いかけが生じ得る。哲学研究者が2015年に辺野古を見て歩いて得た直感を伝えるレポート、その後編。

(中編の記事はこちら

マイクを使っての様々な報告や話が一通り行われると、何やら人々が立ち上がり、動き始めた。どうやら皆で道路を横断し、ゲート前に直接に座り込みにいくらしい。

さて、この後始まったゲート直前での抗議行動は、実に興味深いものであった。ここには、政治を考える上での理論的な問題が見出されるように思われる。当日の雰囲気をなるべく忠実に伝えられるよう努力したい。

道路を渡った後、何が始まるのか私にはすぐには分からなかった。だが、おもむろに人々が二列になり歩き始めた。人数は一三〇人ほどだろうか。二列になって歩行する人々は、約二〇メートルの長さのゲートの端の前から出発して、もう一方の端の前で折れ曲がり、歩道を行ったり来たりする。こうして、歩道上を行進する二列の人々の輪が出来上がった。

大政翼賛会のメディアミックス 背表紙
社会の知恵

「素人」が「投稿」し、自ら動員される参加型ファシズム

私たちは誰に「表現させられて」いるのか。

「翼賛一家」というまんがが、戦時下にあった。昭和十五年末から、多くの新聞、雑誌に連載され、単行本もいくつか出た。レコード化、ラジオドラマ化、小説化などもされた。これは今のことばで言えばメディアミックス作品である。

本書はこの「翼賛一家」のメディアミックスについて考えるものである。(中略)

「翼賛一家」が戦時下における政治的動員の手段として意図され、仕掛けられた「メディアミックス」であった点は本書で検証していくが、それまでの多メディア展開と異なる点が大きくいって三つある。

民主主義を直感するために 背表紙
社会の知恵

哲学研究者が辺野古で直感した、民主主義の先端部分

沖縄民意の反対を押し切り土砂投入が強行された辺野古。政治的な問題を考える時、最初にある素直な直感はとても大切だ。「これは何かおかしい」という感覚が得られたならば、そこからは「なぜこうなっているのか?」という問いかけが生じ得る。哲学研究者が2015年に辺野古を見て歩いて得た直感を伝えるレポート、その中編。

(前回の記事はこちら

カヌーや抗議船による辺野古海上での抗議活動は、座り込みによる訴えを目指す非暴力的なものである。だから、臨時制限区域に立ち入ったり、そこに近づいたりするだけで暴力を振るわれるという現状はどうやっても正当化できない。だが、読者の中には、「制限区域は制限区域なのだから、そこに立ち入るのはおかしいのではないか」と感じる人もいるかもしれない。また、本土のマスメディアが時折、辺野古海上での衝突を報じるが、そうした報道に触れた人の中にも、同じような感想を持つ人がいるかもしれない。

辺野古の現状を理解するためには、当たり前のことだが、事態の背景と、ここに至るまでの歴史を知らなければならない。もちろんここでは詳細な検討は望めない。その輪郭だけでもイメージできるようになることを目指そう。

辺野古の新基地は、沖縄県宜野湾市にあるアメリカ海兵隊普天間飛行場、通称「普天間基地」の代替施設としてその建設が計画されたものだ。前沖縄県知事の仲井真弘多(なかいまひろかず)氏は、普天間基地の県外への移設を公約に掲げて二〇一〇年に再選された。ところが、一三年一二月に突然、公約を翻し、辺野古移設を認める埋め立て承認をした。同年三月、政府が辺野古沿岸の埋め立てを申請した際には、「理解できない」「日米両政府がいくら決めても(辺野古移設は)事実上無理、不可能ですよと申し上げてきた。その考えに変わりありません」と述べていたのだから(『日本経済新聞』二〇一三年三月二三日)、この公約破りは衝撃であった。政府はこの後、仲井真氏による「承認」を、錦の御旗のように掲げて工事を正当化していくことになる。

なぜ人と人は支え合うのか 背表紙
社会の知恵

「やまゆり園障害者殺傷事件」の背景にあるもの

2016年夏、相模原市にある障害者施設で19人が刺殺され、27人が重軽傷を負った。社会を震撼させた事件の背景に何があったか。そのあらまし、考える手がかりを追う。

◆「やまゆり園障害者殺傷事件」と私たち

非常に気の重い話でもあるのですが、障害をテーマに何かを語ったり、考えたりする場合、やはりこの事件の話題に触れないわけにはいきません。

「障害者なんていなくなればいい」―犯人がそんな趣旨の供述をしたとして、社会を震撼させた例の事件についてです。この問題を考えるにあたっては、事件を起こした植松聖という人物の考え方を高みから全否定するのではなく、その主張をわが身に照らして、じっくりと吟味してみる必要があると私は思っています。

というのも、私自身、胸に手を当ててみれば、ある時期まで、障害についての問題を「人ごと」だと考えていましたから、植松被告と似たような意識を漠然と心の中に抱いていなかったかというと自信がありません。もちろん、「いなくなればいい」とか「死ねばいい」などとはっきり思っていたわけではありませんが、あの事件の報道に初めて接したときの、私自身の心のざわつきに正直にならないわけにはいかないのです。

教養としてのワインの世界史 背表紙
社会の知恵

ワインを飲めば世界史がわかる!? 「ヨーロッパの伝統」の裏側を読み解く

ギリシャ時代より愛飲され、近代の幕開けとともに「世界商品」として歴史を動かしてきた嗜好品・ワイン。その歴史を辿り、資本主義の秘密にせまります。

ワインの旧世界

「旧い」とか「新しい」とかいう言葉は、いいかえれば起源の遠さないしは近さのことです。「旧世界」のワインは起源の古さを伝統として誇り、「新世界」のワインは起源の新しさを活力として誇ります。ですが、話がそれだけならば、もっとも典型的な旧世界ワインの産地はたとえばジョージアであり、もっとも典型的な新世界ワイン産地はたとえばインドや中国であるということになるでしょう。事実、ジョージア・ワインはしばしば「人類最古のワイン産地」を誇り、インドや中国の新進ワイナリーはしばしば、ついに再びやってきた彼らの時代の象徴の一つに数えられます。

ところが実際的にいって、旧世界の中心はフランスやイタリアであり、ジョージアはせいぜいその周縁に入るか入らないかといった程度です。また新世界の中心はカリフォルニアやオーストラリア、チリといった地域であり、中国やインドがそのなかに数えられることはいまのところまずありません。

デリダと死刑を考える 背表紙
社会の知恵

「死んでお詫びをする」という日本の情緒?

「死刑存廃論はあくまでも感情の問題へと縮減される」。──慶應義塾大学理工学部准教授(フランス・イタリア現代思想)の高桑和巳さんが、日本の死刑廃止論において最大の問題である「国民感情」について説明しています。

死刑制度が廃止されている国家は、事実上執行が停止されている国家を含めると、二〇一七年の時点で一四四か国であり、存置の五十七か国の二倍強となっている。各国の人口を考慮すれば比率は逆転するが(中国、インド、アメリカ合衆国(州によるが)、インドネシアなど、人口ランキングのトップ十か国のうちブラジルを除く九か国が存置国である)、これは人口がアジアに集中していることによる部分も大きく──要するに、アジアに死刑存置国が多い──、地域によっては、当該地域内の各国の人口を考慮したとしても、死刑廃止への移行は実質的に最終段階に達している(ヨーロッパ、南アメリカ、オセアニア)。事実上、全体の傾向は廃止への一方向である(つまり、不可逆的な様相を呈している)。

死刑制度は国内法に関わる事柄だという理由から、日本における死刑制度を考えるにあたってこのような国際的趨勢への配慮を不要と見なす立場も存在するが、そのような議論立てが、仮に日本がたとえばヨーロッパに位置していたばあいに実質的な意味をもちうるとは思えない。その意味では、存置ないし無関心の立場が、アジアという一地域での国際的趨勢を意識的にか無意識にか惰性で追認するものにすぎないという可能性も想定できなくはない(念のため言い添えるが、それはアジアには本質的な、乗り越えがたい特殊性がある、などという意味ではもちろんない)。