集団的自衛権はなぜ違憲なのか
こころの知恵

国民は日本国憲法を自ら選択した

「日本国憲法」の全文に初めて目を通したのは、中学生の時だった。その頃の私は、先生の生活指導やら、同級生の人間関係やらに嫌気が差し、どうしようもなく息苦しかった。大学教員という仕事に就いた今では、先生や同級生たちに、それぞれ譲れないものがあったのも理解できるが、それでも、あの時の息苦しさは今でも忘れられない。そして、その息苦しさから私を解放してくれたのは、「日本国憲法」だった。

「日本国憲法」と言うと、多くの人は9条を思い浮かべるだろう。しかし、中学生の私の心をとらえたのは、憲法第三章に掲げられた自由権規定の数々だった。特に、「思想及び良心の自由」を規定した19条、「学問の自由」を規定した23条の印象は強かった。これは、こういうことだ。

私はなぜか「普通」でない意見や、「多数派」とは違う行動をとることが多かった。人と声を合わせて歌う合唱は、かっこ悪く感じたし、運動神経が悪いので、運動会やマラソン大会も嫌いだった。私はそうした学校行事のたびに、暴力で妨害したりはしないものの、「もっと楽しいことを探すべきじゃないか」と正面から口に出した。

当然、先生や真面目な同級生から「なんでわがままを言うんだ」「なぜみんなに合わせられないんだ」と非難される。気まずい。息苦しい。そういう考え方しかできない自分は、ダメな人間なのではないか、という気持ちにもなる。そんな時、憲法19条は、ダメな自分が生きていることを許してくれる気がした。憲法23条も、どんなにひねくれたことでもとことん考えて良いんだよ、と背中を押してくれている気がした。それが原点になって、法学部への進学を志し、憲法を研究する仕事に就いた。

私は、こうしたとても「個人的」な体験を通じて、憲法に出会った。だから、「憲法こそが自分らしさを支えている」という実感は、「普通」の人には分からないだろうと思っていた。実際、中学・高校時代も、あるいは法学部に進学してからも、憲法とか自由とかに、強い関心を持つ友人には出会わなかった。むしろ、日本国憲法は、太平洋戦争後の占領下、GHQが作成した原案を基にしているため、「押し付け憲法」だと悪口を言う人も世間にはいる。だから、私のような体験がある人以外は、「押し付け」られた自由や民主主義が嫌いなのだろうと、考えたこともあった。

だけれども、日本国憲法の歴史を勉強してみると、自分の感じる憲法への思いは、案外「普通」なんじゃないか、と思うようになった。

まず、原案を作ったGHQの人たちは、「全ての個人が尊厳を持って生きる社会」という理想を実現しようと、とても真剣だったことが分かる。男女の平等規定(憲法24条)の原型を作ったベアテ・シロタ・ゴードンさんの『1945年のクリスマス』を読むと、彼女が、日本国民に何かを「押し付け」ようとしていたようには到底思えなくなる。

また、原案を受け取った日本政府の人々も、やっぱり真剣だった。翻訳や折衝を担当した佐藤達夫さんの『日本国憲法成立史』には、当時の官僚たちが、GHQの原案と日本の法体系を整合させるために、とてつもない努力をしたことが描かれている。さらに、政府の案は、日本初の男女普通選挙で選ばれた衆議院で審議され、議事録には幾つかの感動的な演説も残っている。密室で作られた明治憲法に比べれば、遥かに開かれた制定過程だ。

ただ、当時は占領下である。占領軍の言論統制もあり、GHQの原案を拒否することは事実上不可能だったと言われる。どんなに日本国憲法制定に携わった人々が善意だったとしても、多くの日本人は嫌がっていたのではないか、そんな疑問を出す人もいる。

しかし、当時を知る人の言葉を聞くと、そんなことはないと分かる。明治憲法の時代、人々の自由は極端に抑圧されていた。例えば、社会主義という「普通」でない思想を持つ人は、治安維持法により処罰された。この法律は、当初、過激な政治結社のみに適用されたが、ずるずると適用範囲が拡大し、学者や宗教家までもが刑罰を受けることになった。また、政府を批判する新聞や不倫を描写した小説は、「非常識」「不道徳」なものとされ、出版が禁止された。そんな社会では、よほどの権力迎合者でない限り、誰もが強烈な息苦しさを感じるだろう。

ジャーナリストの田原総一朗さんは、当時小学校六年生で、国民主権を宣言し、自由に満ちた日本国憲法を見て、「ほんとうにしびれた」と言う。また、戦後の憲法学を支えた芦部信喜先生や奥平康弘先生も、新憲法が公布されたときに何とも言えない解放感を覚えたと語っていた。このように、新憲法を大きな喜びをもって受け入れた記憶を語る人は多い。ということは、当時の日本国民は、自由が何よりも大事な価値だと規定する日本国憲法を、自ら選択したと考える方が自然なのではないだろうか。

そうした新憲法制定の体験は、憲法を初めて読んだ中学生の私の体験と、とてもよく似ている。もちろん、当時の人の苦労は、私の中学時代の比ではなく、比べるのも失礼なくらいだろう。しかし、個人の自由を保障して、人々を息苦しさから解放しなければならない、という日本国憲法への共感は同じはずだ。

憲法に興味を持てない人や、「押しつけ憲法」だと悪口を言う人も、ある種の体験があれば、そのことの重要さを分かってもらえるのではないかと思う。いや、むしろ、彼らが憲法の悪口を言ったり、無関心であったりできるのは、個性を押しつぶそうとする息苦しさを体験していないからだろう。だとすれば、そうした人々が多いことは、憲法の理想が実現していることを意味しているのであり、憲法の研究者としては喜ぶべき現象かもしれない。

もっとも、息苦しさの体験を持たないが故に、日本国憲法を嫌悪する人があまりに増えれば、私たちの自由の基盤は崩れてしまう。私たちは、日本国憲法制定を体験した人々の言葉を直接聞くことのできる最後の世代に属している。自由な憲法を選択した人々の言葉を、次の世代に受け継ぐことが、私たちの責任である。一人ひとり違う考えを持つことを前提に、互いの個性を尊重しながら共存する世界、「自由な世界」を私たちは守っていかなければならない。

(『集団的自衛権はなぜ違憲なのか』より抜粋)

書籍データ

集団的自衛権はなぜ違憲なのか
概要明らかに憲法違反であるにもかかわらず、 強引な手法で安全保障法案が国会を通過しようとしている。 政権が暴走し、合理的な議論が困難になっているいまこそ、 憲法の原則論が重要となる。 80年代生まれの若き憲法学者がその専門知をもとに、 安倍政権が進めようとしている安保法制、集団的自衛権行使に対して行う 根源的な批判の書。 哲学者・國分功一郎氏との対話 「哲学と憲法学で読み解く民主主義と立憲主義」も収録。
タイトル集団的自衛権はなぜ違憲なのか
著者名木村草太
出版社晶文社
刊行日2015/8/22
判型46判並製
頁数280頁
定価本体価格1300円+税
ISBN978-4794968203