こわいもの知らずの病理学講義
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1分でわかる「病の帝王」がんの一生

がんについて発症の分子機序やら治療やら、いろいろなことを書いてきました。最後にまとめとして、がんの一生についておさらいをしてみましょう。

正確なところはわからないのですが、先にも書いたように、検査で見つかるような悪性腫瘍になるまで、1センチメートルくらいに育つまでには、おそらく10年以上かかると考えられています。

がんは、元々たった1個の細胞がどんどん増殖してできたものだ、ということを思い出してください。それに、最初のうちは、ドライバー遺伝子に突然変異が生じたとはいえ、がんとは言えないような状態で、増殖もそれほど速くなかったはずです。変異が蓄積するにつれて、次第に増殖が速くなっていき、最終的に浸潤能や転移能などを獲得していくのです。そのように進化するには、長い年月がかかるわけです。

突然変異は、ランダムに、基本的には加齢にともなって生じるものですから、がんの元になる細胞は、寿命が長くなければなりません。なので、がんの元となる細胞へとたどっていけば、幹細胞あるいはそれに近い、寿命の長い細胞のはずです。

どれくらいのドライバー遺伝子変異が必要かというと、最も少ない白血病で2〜3個、ほとんどの固形がんでは6個程度とされています。ランダムな変異であるにもかかわらず、ドライバー遺伝子にそれだけの数の突然変異が蓄積しなければならないのですから、運—がん細胞にとっては生き残るための幸運、人間にとってはがん細胞が増えてしまう不運—があるはずです。突然変異は基本的にランダムに生じるのですから、ドライバー遺伝子に変異がはいるかどうかも運次第ということです。

がんへの道を歩み始めても、すべてが立派ながんに育つのではないはずです。どれくらいの率かはわかりませんが、多くのがん細胞、あるいは、がんに育ちうる細胞は免疫監視によって排除されているはずです。言い換えると、ものすごく強い悪運をもったがん細胞だけが特殊に進化してどんどん増殖し、臨床的に問題になるがんに育っていくのです。

さて、発見されると、がんにとっては厄災が始まります。手術、放射線、古くからある抗がん剤、あるいは、分子標的療法など、ありとあらゆる手段で攻撃されるわけです。完全に取り除かれる、あるいは、殺されてしまうと、がんの一生はそこで終わりです。しかし、必ずしもそうなるとは限りません。手術では切除しきれない場合もありますし、抗がん剤による化学療法や分子標的療法では殺しきれないこともあります。

がんは一個の細胞からできてきたもの、すなわち、クローナルなものです。しかし、ひとつの腫瘍において、それぞれの細胞のゲノムが同一である、という意味ではありません。進化する過程において、ちがった変異をもったサブクローンもたくさん出現してきます。ある悪性腫瘍の中には、腫瘍細胞に多様性がある、ということになります。

薬剤による治療で生き残った細胞は、もともとその薬剤に耐性があったのかもしれません。そうであれば、治療でたとえごく少数の細胞だけが生き残ったとしても、その細胞は増えていきます。グリベックの話を思い出してください。一旦、分子標的療法が効いて増殖が抑制されても、あらたな突然変異が生じて、その薬剤に対する耐性ができることもあります。がんと人類との闘いは、果てしなき軍拡競争の様相を呈しているのです。

この「がんの一生」を読んで、すっきりと頭にはいってきた、と思っていただけたら、2章にかけて書いてきた甲斐があったというものです。そして、こういったことをきちんと理解できていたら、いざという時がんにどう対応するかも、わかりやすくなるはずです。

ある病気を完全になくす、というのは非常に困難です。人類の手によって根絶させることができたヒトの病気は、天然痘ただひとつです。天然痘は、がんのように原因に多様性などなく、天然痘ウイルスが唯一無二の原因です。ですから、ワクチンの接種によって根絶することができたのです。

では、がんを撲滅することは可能でしょうか。残念ながら100%不可能です。キャンペーンとしては悪くないかもしれませんが、第二次世界大戦中の日本軍みたいに、必勝と書いたハチマキを巻いたら勝てる、とか、そのレベルです。それよりも「がん撲滅」というスローガンを聞くと、患者さんにとことん戦わねばならないというイメージが植え付けられてしまいそうで、よくない面の方が強いような気がします。

がんの末期をどう生きるか、老化をどう受け入れるか、について書かれた、ハーバード大学教授アトゥール・ガワンデの『死すべき定め』(みすず書房)という非常に優れた本があります。末期がんにおいて、とことん治療すべきかどうかは、最終的には個人の考え方次第ですが、非常に判断の難しいこともあります。ホスピスの効用や、家族の支えの重要性、どの段階で積極的な治療を止めるかなどについて、考えさせられることの多い本なので、興味がある方はぜひお読みください。米国ではベストセラーになっています。

もちろん、個々人のがんを完治させることは可能です。しかし、すべてのがん死を地球上からなくす、などというのは、どれだけ医学が進んでも不可能で、夢物語、いや、まったくのトンデモ説と断言できます。このことは、がんが単一の疾患でなく、病因が多様であること、そしてどんどん進化することを頭にいれたら至極当然のことです。

(『こわいもの知らずの病理学講義』より抜粋)

書籍データ

こわいもの知らずの病理学講義
概要医学界騒然! 本邦初の笑って読める医学書誕生。 大阪大学医学部名物教授による、 ボケとツッコミで学ぶ病気のしくみとその成り立ち。 ひとは一生の間、一度も病気にならないことはありえません。ひとは必ず病気になって、死ぬんです。だとすれば、病気の成り立ちをよく知って、病気とぼちぼちつきあって生きるほうがいい。書評サイト「HONZ」でもおなじみ、大阪大学医学部で教鞭をとる著者が、学生相手に行っている「病理学総論」の内容を、「近所のおっちゃんやおばちゃん」に読ませるつもりで書き下ろした、おもしろ病理学講義。脱線に次ぐ脱線。しょもない雑談をかましながら病気のしくみを笑いとともに解説する、知的エンターテインメント。
タイトルこわいもの知らずの病理学講義
著者名仲野徹
出版社晶文社
刊行日2017/9/19
判型四六判並製
頁数376頁
定価本体価格1850円+税
ISBN978-4794969729