〈凡庸〉という悪魔
こころの知恵

私たちが背負っている「考える責務」という十字架について

そもそも「考える」という行為は、人間だけに見られる固有の振る舞いです。他の自然界の動物は「考える」ことはしません。つまり、「考える責務」なる十字架を背負っているのは、様々な動物の中でも、人間だけなのです。

ではなぜ、他の動物達はそんな十字架を背負わず、人間だけが背負っているのでしょうか?

まず、アメーバや魚、ライオン等の人間以外の動物はいずれも、この世に生まれた時から「本能の図式」を持ち、日々の振る舞いの全てをその図式に基づいて織りなしていきます。だから彼等には、いちいち状況を把握し、分析し、解釈し、決断する、というような「考える」必要は、そもそもありません。

しかし、人間の場合はそういうわけにはいきません。もちろん、食欲や性欲といった基本的な本能の図式を一定程度持ってはいますが、それだけで生きていくことが出来ないのが人間です。それにそんな本能と呼ばれるものですら、ストレスに基づく食べ過ぎや拒食症や過食症、不感症や性的不能現象、倒錯した様々な性的嗜好など、普通の動物では見られない非本能的な要素が混入しています。そもそも食べるという行為も性行為も、多分に文化的な影響を受けており、性欲や食欲は、後天的な知識に巨大な支配的影響を受けていることは否定しようがありません。

普段我々が本能だと漠然と考えている食や性といった基本的な行為ですら、そんな文化的、後天的影響を受けているわけですから、私たちの日常のあらゆる行動は、本能と呼ばれるものから遠く隔たったものとなっています。

これは、我々は、大脳が異常発達を遂げた帰結として、この本能図式通りに動くことが出来ない、「狂気に陥った存在」だからだと指摘されています。

例えば、人類学者のエドガー・モーリンは、人間とは、不条理な幻覚を抱く唯一の種族であると論じています。どんな動物も、必要以上に殺生はしません。どう猛な虎やライオンも、満腹になれば、他の動物に見向きもしなくなるのです。しかし、人間だけはそうではありません。恨みや嫉み等、本能図式には全く記載されていないような過剰な意味を持つ存在であり、その結果、必要以上の殺生を繰り返すことができる存在なのです。こうした背景から、しばしば人類はホモ・サピエンス(知恵ある人)ではなく、ホモ・ディメンス(狂った人)と定義すべきではないかと指摘されています。

つまり、人間は、他の動物が当たり前に持っている「本能図式」をなくしてしまった存在なのです。

それにもかかわらず、生まれてきた以上は、人間は、自らの振る舞いをどうにかこうにか決めていかなければなりません。他の動物なら当たり前のように持っている天から与えられた本能という羅針盤を持たぬまま、人間は大海に投げ出されてしまったのです。

だから人間は、生きていくためには四六時中、「思考」せねばならなくなったのです。

羅針盤なき航海で、星の位置や風向きなどを把握しながら考えることを一切とりやめた船乗りに訪れるのは、遭難の果ての「死」以外に何もありません。

かくして、私たちは、「考える責務」なる十字架を背負ってしまったのです。

ただし、全く何の知識もなしに大海原の航海に身を置かれれば、どれだけ考える能力(ability to think)がある者であっても、遅かれ早かれ遭難してしまうことでしょう。しかし、星や雲の動きについての知識があれば、何とか航海を続けていくことが可能となります。もちろん、そんな知識は、天から授けられるものではありません。それは、先人達が航海の中で試行錯誤しながら見いだした知識の切れ端が蓄積されたものです。いわば、先人の英知が集積したものです。

それと全く同じように、私たち人間の航海である「生きる」ということそれ自身のために必要な最低限の知識こそが、長い歴史と伝統で育まれた「文化」なのです。挨拶や返礼や謝罪の仕方やその際の言葉使い、要求や譲歩のはかり方やその表現方法、そして、親愛や憐憫の情の伝え方等、そうした「言葉」を中心とした先人達からの英知としての文化こそが、私たちが失ってしまった本能の代わりに、私たちの日常の振る舞いを指し示す、本能図式の代替物となり得るのです。

そしてこの文化は、「後天的」に作られたものであるからこそ、状況に合わせて柔軟に作り替えたり修正したりすることができる、という大きな特徴を持っています。ここに、人類が、その勢力を地球上で凄まじい勢いで拡大することができた最も本質的な理由があります。

人類以外の存在は皆、先天的に与えられる本能図式に基づいてその振る舞いが規定されています。この本能図式は、環境の変化で(進化論的なプロセスを経て)徐々に変化していくものではありますが、その変化の速度は極めて緩慢で、急激な環境変化に対応することができません。ところが、後天的に与えられる社会的・歴史的構成物に基づいてその振る舞いを規定する人類は、様々な環境に柔軟に対応していくことが可能だったわけです。おかげで北極周辺の極寒の地から、赤道直下まで、後天的な文化の力で様々な環境に適応することが可能となりました。それのみならず、歴史の進展によって時々刻々と変化していく状況に合わせて、ルールを徐々に作り替えていくことも可能となったのです。

そしてその柔軟性は、短い時間スケールでも発揮されるものとなっていきます。会社の成長に伴って、あるいは家族構成の変化に伴って、それぞれの内部ルールは徐々に修正されていきます。そして、国家という大きなスケールにおいては、立法機関(国会)を通して法律、ルールは状況に合わせて逐次的に改訂されていきます。

こうした行動の図式の大きな柔軟性は、本能図式においてはあり得ない大きな特徴です。人類は、こうして、本能図式をいったん壊して「錯乱」することとひき替えに、自らの手で作りあげることができる凄まじい柔軟性を持ち得る「文化」を手に入れ、それを通して大きな発展を実現することができるようになったのです。

ただし、それだけの「柔軟性」を発揮するためには、当然ながら「考える」ことが不可欠です。何も考えず思考停止に陥ったままでは、先代から引き継がれた文化を何の工夫もなく、そのまま繰り返し続けることになります。

つまり文化を「使いこなす」ためには「考える」ことがどうしても必要なのです。

(『〈凡庸〉という悪魔』より抜粋)

書籍データ

〈凡庸〉という悪魔
概要ハンナ・アーレントの全体主義論で読み解く、現代日本の病理構造「思考停止」した「凡庸」な人々の増殖が、巨大な悪魔=「全体主義」を生む。21世紀の全体主義は、ヒトラーのナチス・ドイツの時代と違い、目に見えない「空気」の形で社会を蝕む。マスコミに圧力をかけ言論を封殺する政治家も、改革を絶対視する風潮も、グローバリズムの蔓延も、学界の劣化も、すでに「全体主義」の危険水域!ハンナ・アーレント『全体主義の起原』の成果を援用しつつ、現代日本社会の様々な局面で顔をのぞかせる、「凡庸という悪」のもたらす病理の構造を抉る書き下ろし論考。思考停止が蔓延する危機の時代に読まれるべきテキスト。
タイトル〈凡庸〉という悪魔
サブタイトル21世紀の全体主義
著者名藤井聡
出版社晶文社
刊行日2015/4/25
判型四六判並製
頁数280頁
定価本体価格1600円+税
ISBN978-4794968197