吉本隆明全集9 背表紙
社会の知恵

思想の賞味期限──尖端をいく言葉は短命で移ろいやすい

わたしたちはいま、たくさんの思想的な死語にかこまれて生きている。

〈プロレタリアート〉とか〈階級〉とかいう言葉は、すでにあまりつかわれなくなった。代りに〈社会主義体制と資本主義体制の平和的共存〉とか〈核戦争反対〉とかいう言葉が流布されている。言葉が失われてゆく痛覚もなしにたどってゆくこの推移は、思想の風流化として古くからわが国の思想的伝統につきまとっている。

当人たちもそれ(風流化していること)をよく知っていて、階級闘争と平和共存の課題の矛盾と同一性を発見するのだというような論理のつじつまあわせに打ちこんでいる。しかし、思想の言葉は論理のくみたてでは蘇生できるものではない。いま失われてゆくものは、根深い現実的な根拠をもっているのだ。

言葉が死語になるのは、語に責任があるのではなく、話し、書きとめているものと、それをうけとめるものに死が存在している象徴である。すると、わたしたちは、言葉を死の領域でしかあつかえなくなった多くの思想の、言葉を死の徴としてしかうけとれなくなった内在的な死に直面しているのだ。嘘だ嘘だとおもわずには、どんな言葉もうけとめられないし、話し、書いた瞬間から、言葉を嘘だとおもわずにはおられない失禁感があるとすれば、それがまぎれもなく思想の現状を占う深い資料になっている。

思想の尖端をゆく言葉は短命で移ろいやすい。それを補償するように、なかなか死滅しない土俗的な言葉が地中にひそんでいる。この土俗的な言葉の百年ちかくもかわらなかった象徴を〈天皇制〉という語で象徴させることができる。わが国で思想の問題というばあい、その時代の尖端をゆく言葉の移ってゆく周期を追うことであり、その周期があまりにはやいので、一世代の人間は二〇年代には〈プロレタリアートへの階級移行〉という思想を体験しながら、四〇年代には〈八紘一宇〉や〈東亜協同体〉に移り、現在では〈社会主義体制〉と〈資本主義体制〉の対立と共存という課題にとびうつるということを一生涯に体験できるほどである。また、一つの時代の尖端的な言語が死滅するのは、思想の内在的な格闘によるのではなく、外部の情況によるだけだから、いったん埋葬された思想は、十年あるいは二十年まてばふたたび季節にむかえられて、新しい装いで再生することができるほどである。

この現象は尖端的な言語と土俗的な言語との交替であり、古典的な転向論のカテゴリーでとらえると、反体制思想と体制思想の同一人か別人による交換であるようにみえる。しかし、ほんとうは尖端的な言語と土俗的な言語のあいだに捩れの構造があるために、思想言語の全空間を想定し、見透かすことができなかったという問題に帰せられる。わが国で、尖端的な言葉をえらぶことと、土俗や農耕の言葉の永続的な流れをえらぶことが、ともに不毛であって、たんに季節のような周期に身をゆだねるほかないのは、この両端に古典マルクス主義や戦後プラグマチズムが想定しているような線型(リニアー)の媒介関係がないからである。

土俗的な言葉に着眼し、それをおしすすめて思想の原型をつくろうとしても、尖端的な課題にゆきつくことはできないし、また逆に世界の尖端的な言語をとらえかえすことができないという結節や屈折の構造があり、戦前から戦後にかけて、大衆的な課題を視界にいれようとした思想は、この不可視の結節をかんがえることができなかったために、虚構の大衆像とならざるをえなかった。

わたしが課題としたい思想的な言葉は、この各時代の尖端と土俗とのあいだに張られる言語空間の構造を下降し、また上昇しうることにおかれている。

言葉の質をきめる力は、本質的には言語体験がつみ重ねられてきた長い歴史と、現にその言葉がつかわれている社会の現情況とである。思想的な死語を賦活させる力も、したがってこのふたつのなかにしか存在しない。ある言葉を言語体験のつみ重ねられた歴史のどこに位置するかをはっきりと測定すること、ある言葉が現実の情況から訣別したがっている根拠をつきとめること、処方箋はこのふたつしかない。

「自立の思想的拠点」(1965年)より

(『吉本隆明全集9 1964-1968』より抜粋)

書籍データ

吉本隆明全集9 表紙
概要長く深い時間の射程で考えつづけた思想家の全貌と軌跡!書かれた著作のすべてを収録する決定版全集。2014年刊行スタート、全38巻・別巻1。第9巻には、政治的混迷の季節に虚飾にまみれたマルクスを救出するという緊張のもとに書かれた『カール・マルクス』と、既成の左翼思想からの「自立」を基礎づけるための諸論考『自立の思想的拠点』を収録。ほかに、単行本初収録となる原稿を2篇収載する。月報は、鹿島茂氏・ハルノ宵子氏が執筆。
タイトル吉本隆明全集9 1964-1968
著者名吉本隆明
出版社晶文社
刊行日2015年6月
判型A5判変型
頁数568
定価6300円
ISBN978‐4‐7949‐7109‐8