社会の知恵

人口減少問題にみる原因と結果の混同

戦後70年の間に、わが国で起きたことのうちで、最も重大な社会変化は2009年をピークにして総人口が減少し始めたことだろう。この変化は政治・経済・文化の領域において、この上なく重要な意味を持っている。しかしそれは、長い時間の中での、緩やかな変化であるために、緊急の課題にはなりにくかった。

この緩慢な変化は、為替変動や、政変、あるいは天災などのように、すぐさま何か大きな異変をもたらすことはないかもしれない。しかし、向こう数十年あるいは1世紀以上の来るべき歴史は、この国の在り様を根本的に変えてしまうことになるだろう。つまり、わたしたちは、長く、緩慢な、しかし確実な文明史的転換点のただ中を生きている。そのことを、これから説明していきたいと思う。

本質的な変化とは、いつも緩慢なものであり、その内部に生きているものにとっては、その変化が何を意味しているのかがよく分からないものだ。そればかりか、変化そのものにさえ気がつかない場合が多い。多くの場合、変化の結果が作り出す断面だけを見て、「人口が減った」とか、「成長が鈍化した」とか言っているに過ぎない。

繰り返すが、本質的な変化とは、緩慢にしか進まないものであり、同時に、経済や、文化や、自然環境や、生活といった諸々の様相が、ほとんど同時的に地殻変動を起こすようにして進行するものだと思ったほうがよい。それも、数十年、数百年という時間の中での話である。

現在、多くのメディアが報じている人口減少に対する理解は、こういった文明史的な変化に対して、近視眼的な視点しか持たない誤った理解の典型的な症状を示している。そのひとつが、多くの日本人が、「将来の経済的な不安があるために、女性が子どもを産まなくなった」という説明を信じていることだ。

こういった分かりやすい解釈には、重大な落とし穴があると考えたほうがよい。後に詳しく述べるように、そもそも、女性は子どもを産まなくなったわけではない。

読者は意外に思うかもしれない。

現に、少子化という現象が起きているではないか。

総人口は急激に減少しているではないか。

その理由は、まさに女性が子どもを産まなくなったからではないかと。

しかし、総人口の減少と、女性が子どもを産むか産まないかということの間には、直接的で単純な因果関係があるとは言えないのだ(そのからくりについては、後ほどデータを見ながら詳細に説明する)。

では、なぜ少子化という現象が起きているのか。この問題に答えるために、ただ人口が減少したという事実や、経済が停滞し格差が拡大しているという現象を分析しても、ほとんど意味のない、頓珍漢な処方箋を書くことになるだけである。急激な肥満の原因をつきとめるために、その患者が運動不足であることを指摘することは多いが、多くの場合、運動不足は肥満の原因ではなく、結果なのである。肥満の直接の原因は過剰摂取なのだろうが、なぜ過剰摂取をするようになったのかについては、簡単な答えは見出しにくいだろう。心理的な要因、ストレス、生活のリズムの変調、過剰消費などなど、様々な要因が重なり合っている。

さらに観察してみれば、ストレスも、生活のリズムの変調も、それに先立つ環境の変化の結果なのである。この糾(あざな)える縄のごとき原因と結果の結ぼれを解きほぐすことは、容易ではない。

社会の長期的な変化についても同じことが言える。わたしたちは、社会現象として現れる様々な変化を前にして、多くの場合、原因と結果を混同してしまうことになる。人口減少は、経済の停滞や、高齢化という現象を伴うだろうが、それらは人口減少だけが原因ではない。人口減少が時代変化の原因なのではなく、人口減少という現象そのものが、時代変化の結果なのである。端的に言って、それは文明の進展の帰結として起きている現象である。

もうひとつ、わたしたちが陥りやすいことがある。それは、上記のような現象に対して、善悪の物差しを当ててしまうことである。もし、人口減少が「悪」であると決めつけてしまうならば、誰でも、人口減少を即座に食い止めなければならないと思うだろう。しかし、それは、誰にとっての「悪」なのか。

当たり前の話だが、人口が増えることも減ることも、本来的に善悪の問題ではない。問題は、なぜ、どのようにして、文明の進展が、人口減少という結果を作り出したのか、人口減少の結果、経済はどのように動いていくのか、その理路を探り出すことである。

人口減少に伴って、社会構造、産業、集団的意識や規範といったものも、ほとんどその変化に気付かないうちに、今とは別なものにとって代わられることになる。もちろん、そのような変化に抗う勢力も少なくはない。しかし、変化に対抗することもまた文明史的な必然である。こういった長期的スパンで引き起こされる変化は、変化を促す勢力と、変化を阻止しようとする勢力とが、お互いの生存を賭けて相争うことになる。

たとえば、国民経済の分野では、少子・高齢化し、成熟した社会において、成熟社会にふさわしい定常経済を唱えるものたちと、なお、経済成長戦略を掲げるものたちの、苛烈な闘争が起こる。いや、すでにそれは起きているのだが、しばらくの間は、お互いに何を争っているのかも分からないことが多いのである。

たとえばそれは、社会主義的な分配の経済と、資本主義的な自由な経済との間の正当性を争うような争いだと思ったり、大きな政府と市場原理という相反する統治システムの間の争いだと思ったりする。しかし、この問題は、そうした二者択一の中に正解を求めるような問題とは、次元の異なるものなのだとは、考えない。

二者択一を議論している間に、現実の方が答えを先に出してしまうのである。たとえば、市場の動き自体は、すでに定常化へ向かいつつあり、当面の間、経済対策でこれを再び成長軌道に乗せることは難しい。アベノミクスのような強引な量的緩和政策を用いても、物価上昇にはつながらないのだ。

現在の政権は、これを「デフレからの脱却」という文脈で解決しようとし、その結果、無駄な政策を並べる。今、商品市場で起きていること。商品価格が上がらず、需要も縮小し、活発な投資も控えられている状態は、デフレということなのだろうか。デフレとは、消費と生産のバランスの失墜である。市場の原理がうまく働かなくなって、必要以上の生産が行われ、物価がスパイラル的に下がっていく。

ところで、デフレの解決は、経済成長以外にはないと信じている人は多い。しかし、この信仰には意味がない。それはデフレの解消は、インフレだと言っているのと同じことだからだ。つまり、何も言っていないに等しい。デフレもインフレも、経済政策によって調整できるかのような幻想がある。金利政策にせよ、財政政策にせよ、それらが効果を発揮するのは、限定的な条件の下でしかない。市場が健全に機能しており、信用収縮が起きておらず、人間の生存を支えているインフラは不変であるという条件が整わなければ、金融政策も財政政策も、その効果は極めて限定的だと言わざるを得ないのだ。

(『「移行期的混乱」以後』より抜粋)

書籍データ

「移行期的混乱」以後 表紙
概要人口減少の主要因とされる「少子化」はなぜ起きたのか? そもそも少子化は「問題」なのか? 問題であるとすれば、誰にとってのどのような問題なのか? 日本の家族形態の変遷を追いながら、不可逆的に進む人口減少社会のあるべき未来図を描く長編評論。「経済成長神話」の終焉を宣言し、大反響を呼んだ『移行期的混乱』から7年後の続編にして、グローバリズム至上主義、経済成長必須論に対する射程の長い反証。解説・内田樹。
タイトル「移行期的混乱」以後
サブタイトル家族の崩壊と再生
著者名平川克美
出版社晶文社
刊行日2017/5/23
判型四六判並製
頁数224頁
定価本体価格1600円+税
ISBN978-4-7949-6829-6