儒教が支えた明治維新 背表紙
社会の知恵

なぜ、秀吉は大陸進出を狙ったのか

一五九二年(文禄元)、豊臣秀吉は十五万の大軍を送って朝鮮に進攻した。韓国では、この歳の干支によって壬辰倭乱と呼んでいる戦争である。

この戦争を、かつて日本では「太閤殿下の朝鮮征伐」と称していた。現在の歴史研究者の間では、この戦争は日本側の侵略行為だったとみなす傾向が強く、「朝鮮侵略」という表現が用いられることが多い。高等学校の日本史の授業でもそう教えられていたりする。すると、今度はこれを不快に感じる人士によって、「自虐史観だ」と批判されるようになっている。

同じ戦争のことを「征伐」と呼ぶか「侵略」と呼ぶかは、それに対してどういう評価(=価値判断)を下しているかの差異に対応している。歴史上の事件をなんと名付けるかは、歴史認識のうえで重要な問題である。歴史とは単に事実を解明するだけの営みではない。その事実を、人間社会の歩みの中でいかに評価し位置づけるかという学術でもある。戦争の場合、それが悪者を懲らしめる正義のための進攻なら「征伐」、利己的な加害行為なら「侵略」と呼ばれる。

秀吉の行為には先例があった。正確には、あったとされていた。神功皇后の三韓征伐である(新羅征伐ともいう)。『古事記』や『日本書紀』は以下のように伝える。両書は細部が異なるが、以下のあらすじは同じである。

第十四代仲哀天皇は、九州南部の政治勢力を「征伐」するためいまの福岡に行幸あそばされた。この時、ある神が皇后に取り憑き、託宣として海の向こうの宝の国を攻め取るようにと勧める。しかし、天皇は「そんな国があるとは聞いたことがない」と仰せられてこの託宣を信用せず、この地で突然崩御なさる。遺された皇后は身重のからだを押して軍船に乗って海をお渡りになり、新羅の王を降参させる。これを知った百済と高句麗の王も懼れをなして我が国に使者を送り、今後末永く貢ぎ物を納めて服属することを誓った。皇后は帰国してから皇子を生むが、(『日本書紀』によると)七十年間にわたって摂政として日本をお治めになった。これが神功皇后であり、その皇子が応神天皇である。大日本帝国政府が江戸時代の『大日本史』の説を採用して天皇代数から外すまで、神功皇后は「第十五代の天皇」として数えられていた。

現在の実証史学においては、この「征伐」は記紀編纂当時の国際情勢を背景にして、その編纂者たちがおのれの願望をこめて創造した「お話」だとされている。しかし、秀吉は、当時の日本人がみなそうであったように、これを史実だと思って疑わなかった。「朝鮮は神功皇后の時に、未来永劫日本に服属することを誓約した」。この歴史認識が、彼の派兵を「征伐」として正当化する。

厳密には、秀吉は朝鮮を相手にしていたわけではない。彼の意図は、中国(当時は明)の征服にあった。そのために軍隊を通すことを朝鮮に要求して断られたため、無礼だとして出兵に及んだのである。

朝鮮が断るのは当然で、この国は当時、明の朝貢国だった。朝鮮の王(李氏)は世襲であったけれども、制度的には明の皇帝からそう任じられることで「朝鮮国王」たりえていた(皇帝と王のこの関係は、冊封と呼ばれる)。したがって、朝鮮が秀吉の要求を受け入れる可能性はまったくなかった。もし、要求を提示した時に日本の外交当局者が誰もこうした事情を知らなかったとしたら、これはまたとんでもない話である。ただ、それ以前に外交関係があったのだから、明と朝鮮の冊封関係は知っていたはずだ。にもかかわらず、独裁者秀吉の意思を止めることができず、国際的には無知も甚だしい要求を行い、ついには戦争に突入していったのであろう。

明は冊封関係にある朝鮮を保全するため、援軍を派遣し朝鮮軍と力を合わせて日本軍と戦った。

秀吉の「朝鮮征伐」は明との戦争でもあり、日本では当時「唐入り」と呼ばれた。

 

豊臣秀吉は、なぜ明に攻め込もうとしたのだろうか?

教科書から小説にいたるまで、「豊臣秀吉は天下統一を完成させた」と記述している。一五九〇年(天正十八)、「小田原征伐」によって北条氏を滅ぼし、その陣中に伊達政宗ら東北の大名たちが馳せ参じたことによって、日本全土の大名たちが秀吉に服属した。こうして、長い「戦国乱世」が終わって平和が回復した、はずだった。

だが、そんなことはない。小田原攻めの前から、豊臣政権は「唐入り」の準備を始めている。天下統一で国内の戦争が終結したわずか二年後に対外出兵があった事実は、「せっかく平和になったのに何故?」と思わせる。しかし、この認識はその前提自体がおかしいのだ。「天下統一」と「唐入り」とは連続していた。北条氏との戦争も、朝鮮との戦争も、ともに「征伐」だったのだ。

彼がそれまでの戦国大名と異なるのは、天皇の権威を大いに活用したことだと言われている。

類例が戦国時代にないわけではないらしいが、しかし、自ら関白として天皇の職務代行者に就任し、その権限で「惣無事令」と呼ばれる私闘禁止令を布告し、その名目で各地の諸大名に威圧をかけたのは、豊臣政権の特徴である。軍事権はすべて天皇の代理人である自分が握るべきだという論理であった。もちろん、掛け声倒れにならないだけの暴力装置を、秀吉は持っていた。

いまの私たちは「日本はもともと一つの国なのだから、内戦状態を終結させるために軍事権を一元化するのは当たり前」と思ってしまう。しかし、この常識は、平安時代後期以来、それぞれの地元で「一所懸命」(語源は「自分の土地を命がけで守る」ということ)に生きてきた在地領主たちにとっては、なじみのないものだった。律令体制が崩壊して以降、中央政府による軍事的な一元化というのは、実現したことがなかったのである。豊臣政権はまったく新しいこと、常識はずれなことをしようとしたのだ。

小田原北条氏が頑強に秀吉からの服従要求を拒んだのは、彼らが秀吉のこの斬新さを理解していなかったことによる政策判断の誤りだった。ただ、彼らの常識では、京・大坂から関東の僻地にまでわざわざ大軍を率いて攻めてくるはずがないと思われたのだ。小田原攻めは見せしめ効果を狙ってもいたろう。東北の大名たちが小田原に参陣するのは、秀吉の本気度を目の当たりにしたからである。彼らの常識は大きく崩れた。

私たちは、「小田原征伐」は日本国内を一つにまとめる事業としてプラスに評価する一方、「朝鮮征伐」は対外侵略戦争としてマイナスに評価してしまいがちである(後者もプラスに評価する人の意見は、それはそれ、他者の見解として尊重しよう)。しかし、私は関東出身なので、前者もまた侵略戦争だったという歴史認識を持っている。十二世紀末の源頼朝による鎌倉開府以来、いや、さかのぼって十世紀の平将門の挙兵以来、関東地方は京都にある朝廷から自立した場所だった。足利将軍家は関東出身だが、本拠地を京都に置いて幕府を開きつつ、分家を関東に置いて東国統治を委ねていた(鎌倉公方)。戦国大名の北条氏が、もともと伊勢氏なのに北条を名のったのは、鎌倉幕府執権だった北条氏の名が関東で持つ権威にあやかったからである。藤原氏の猶子にしてもらって関白の地位にありついた男─秀吉は「藤原秀吉」の名で関白に就任し、のちに豊臣という新しい姓を天皇から与えられた─と比べて、自分たちは対等もしくは格上だと思っていただろう。有名な網野善彦の所説(『東と西の語る日本の歴史』講談社学術文庫、一九九八年、初出は一九八二年など)を引き合いに出すまでもなく、日本列島は東と西とで異なっていた(もちろん、もっと細かな下位区分を地域ごとにする必要があるが、本章の本筋ではないので省略する)。

というわけで、秀吉は前人未踏の事業を成就したのである。いや、まだ成就してはいなかったのだ。小田原攻めは列島の内部が一つになっただけにすぎない。豊臣政権の視線はすでに海の外を向いていた。神功皇后への託宣の通り、そこには宝の国が存在していたのだから。

彼らが小島を出て大陸に行くのは、理の当然だったとも言えよう。

(『儒教が支えた明治維新』より抜粋)

書籍データ

儒教が支えた明治維新 表紙
概要中国や韓国は儒教によって国が統治され、儒教は服装や冠婚葬祭のやり方まで、社会のすみずみに行きわたっていた。日本では、朱子学や陽明学は、武家の間に広まり、その儒教的教養の水脈は、水戸光圀、大塩平八郎、吉田松陰、西郷隆盛、伊藤博文……と受け継がれ、日本の近代化を用意した。中国哲学の専門家が、東アジアの中の日本を俯瞰して論じる、あたらしい明治維新論。
タイトル儒教が支えた明治維新
著者名小島毅
出版社晶文社
刊行日2017年11月
判型46判並製
頁数276
定価2052
ISBN978-4-7949-7033-6