勘定奉行の江戸時代 背表紙
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江戸幕府は財政危機を乗り越えられたか

新井白石の荻原重秀批判の真相

勘定奉行・荻原重秀に対する新井白石の批判が凄まじかったことは、よく知られている。白石は、再三にわたり貨幣改鋳の停止を将軍家宣に求めた(以下、新井白石『折たく柴の記』岩波文庫。また白石は、「天地開闢(てんちひら)けしより此(この) かたこれら姦邪(かんじゃ)の小人(しょうじん)、いまだ聞も及ばず」と、この世が始まってから現在まで、重秀のような不正を働く小人を聞いたこともない、とまで激しく非難し排除を求めた。しかし、重秀が罷免されたのは、将軍家宣の亡くなる(正徳二年一〇月一四日とされる)直前の正徳二年九月一一日のことだった。未曾有の財政危機を迎え、それを貨幣改鋳によるとはいえその都度切り抜けさせた重秀の手腕のほどを考えると、重秀を罷免することに将軍家宣と幕閣は躊躇(ちゅうちょ)したのだろう。

白石は何故ここまで激しく重秀を非難したのか。それは、財政危機への対応策とはいえ、貨幣の品位を落とす改鋳策だからというのが大きい。さらに、これは重秀に限られるわけではないが、幕府が行う土木工事や御殿などの作事工事のたびに、幕府役人が業者から多額の賄賂(わいろ)を手にする不正行為の蔓延があげられる。将軍代替わりごとに出されるもっとも重要な基本法は武家諸法度(ぶけしょはっと)で、宝永七年四月に将軍家宣が出した武家諸法度は白石の起草になり、そこには賄賂の禁止が盛りこまれていた。白石は、賄賂によって正道(せいどうどう) がそこなわれ、それにより政治が腐敗することに強い警戒心をもっていた。

白石は、江戸幕府の現状について強い危機感を抱いていた。白石は、しばしば「国財すでにつきはて」(二六四頁)「前代に国財の竭尽給(つきつくしたま)ひしは」(二六七頁)「国財すでに竭尽し」(二七一頁)などと表現し、国家の財は五代将軍綱吉の時代に尽き果てたという認識をもっていた。室町幕府八代将軍足利義政(あしかがよしまさ)から始まり、現在にまで及ぶ国家を損なう害とは何か。それは、御殿や寺社の造営、庭園の築造、珍品奇物の収集と好事(こうず)などの「驕奢」(きょうしゃ=ぜいたく)のために巨額の金を費やすことで、その結果、「天下の財すでに尽きはて」た状態だという。足利義政がぜいたくを好んで国家の財を費やし士風を廃(すた)れさせた害が、二百数十年後の現在にまで及んでいる、というのである。

これは、幕府財政を破綻させた綱吉とその時代の風潮を、義政とその時代をかりて批判しているのである。徳川家康が天命をうけ、その子孫が代々将軍職について天下を統治してきたが、綱吉のような政治が続くならば天命が革(あらた) まる、つまり革命がおこり、江戸幕府が天から見放されることを白石は危惧した。

綱吉の元禄時代は、寺社や御殿の造営、奢侈(しゃし)により財政赤字を生みだし、その財政赤字を貨幣の品位を悪くする貨幣改鋳による益金で補填した。また諸役人は、賄賂をとる不正行為を働く。そして、財政赤字をたれ流す幕府政治を支えた張本人が荻原重秀、と白石はみたのである。白石の激しい重秀批判は、たんに経済財政政策にとどまるものではなく、白石の日本歴史の認識にもとづく江戸幕府の現状への強い危機感だった(新井白石『読史余論』現代語訳、講談社学術文庫、拙稿「解説」)。

元禄貨幣改鋳政策の意義──緊縮派対積極派

幕府財政が危機(困難)に陥ったさい、江戸幕府がとる政策対応として、品位を落とした貨幣を鋳造して利益をあげることを目的にした貨幣改鋳策が初めて採用されたことに、元禄貨幣改鋳は江戸時代の歴史のなかで最大の意義がある。

江戸幕府は貨幣鋳造権を独占していた、としばしばいわれる。それは、江戸幕府が鋳造した金貨・銀貨・銭貨の三貨が全国的に通用し、基軸通貨としての地位にあったことをさす。このほかに藩札(はんさつ)・私札があるが、特定領域内で地域通貨として通用が認められていたにすぎない。勘定奉行は、この幕府鋳造の基軸貨幣を操作することにより財政収入を増やし、幕府財政を運営することを「発見」したのである。

財政赤字に陥った現代の政府が赤字国債を発行して財政運営するのに対して、財政赤字に陥った江戸幕府は貨幣改鋳により財政運営した、ということになる。

財政緊縮による財政運営か貨幣改鋳による財政運営かの選択をめぐり、幕府内部に財政緊縮派と積極財政派との対立がうまれた。元禄の貨幣改鋳は元禄八年(一六九五)に始まり、正徳四年(一七一四)五月、慶長金銀の品位に戻す正徳金銀の鋳造開始により終わった。この正徳金銀への改鋳は享保初年(一七一六)から本格化し、ふたたび良質な貨幣に戻った。だが、流通する貨幣の量が減少したため、元禄期のインフレがデフレ状況に転換し、享保の改革の緊縮政策と相まって長い不景気の時代が始まった。

この後から幕府崩壊に至るまでの幕府財政運営をめぐる政策選択の原型が、元禄期に現れた。大雑把にみると、一八世紀初頭の正徳末年・享保初年から一九世紀初めの文化年間(一八〇四〜一八)までの約一〇〇年間は、緊縮財政を基本として、新田開発や年貢徴収法の工夫による年貢収入増加、さらにさまざまな経済政策を打ち出すことにより年貢外収入の増収を図る路線が続き、それ以降幕府崩壊までは、再び貨幣改鋳による財政運営が行われたと展望できる。

つまり、元禄八年から正徳四年までの約二〇年、文政元年(一八一八)から慶応(けいおう)三年(一八六七)までの約五〇年間が貨幣改鋳に依存した財政運営だった。幕府の財政政策としては、貨幣の品位を次から次へと落とすことにより財政収入を増やすという、安易といえば安易な政策だったといえる。享保期から文化期までの約一〇〇年間の勘定奉行・勘定所は、さまざまな農政や経済政策を編み出して財政収入の増加を図った。それは増税路線であり、しわ寄せをうける百姓・町人たちの激しい反発と抵抗にあったことは言うまでもない。しかし、そこは勘定奉行と勘定所の腕の見せ所とも言え、個性的な奉行たちが登場する。歴史研究としては、後者の方が面白い。

(『勘定奉行の江戸時代』より抜粋)

書籍データ

勘定奉行の江戸時代 表紙
概要江戸幕府の財政は、初期の頃からほとんどいつも火の車。お金の問題を切り盛りした勘定奉行だが、財政だけでなく農政、交通、司法など政治機能の多くを担い、寺社奉行・町奉行とともに三奉行の一員として、政治案件の意思決定にも深くかかわった。そんな重要役職にもかかわらず、いや重職だったからこそ、家格でなく実力で、ノンキャリアの叩き上げが奉行にのぼりつめる内部昇進の仕組みもあった。社会・文化の変化・成熟、幕藩体制の揺らぎなど、江戸幕府二七〇年の盛衰を、勘定奉行の業績や素顔から解き明かす。
タイトル勘定奉行の江戸時代
著者名藤田覚
出版社筑摩書房
刊行日2018年2月10日
判型新書判
頁数224頁
定価本体価格780円+税
ISBN978-4480071132