原発とジャングル 背表紙
社会の知恵

原発というエネルギー発生装置が出現したのは人類史の必然か?

「戦後最大の思想家」すなわち吉本隆明氏は、マルクス流の必然 =「自然過程」を頑強に主張してやまぬ人だった。少なくとも経済だけは人間の意向に左右されぬ自然過程だ、その展開に抵抗するのは夢想家だとニベもなかった。この人は「理屈をこねるのが大好き」と自認するだけあって、「経済」と分野を限定しての話になっているが、実はこの「経済」は科学技術が中心をなしていて、氏の言う「経済」とは、物質文明全般にほかならない。

氏の主張には打ち勝ちがたいところがある。ピダハンの世界がいかに魅力的であっても、ではアマゾンに移住して彼らの一員になろうという人はいない。狩猟採集経済以後、人類が獲得したものは物心両面においてとほうもなく巨大多様だったのである。

ところがその巨大な獲得には同時に、様々なリスクや心労や拘束が伴っていた。早い話が富は生活をゆたかにするが、同時に苦の種にもする。精神的な富ならいいだろうと思うのも間違いだ。例えば蔵書は一定数を越えると煩いの種、場合によっては凶器になる。そのことを少なくとも私は去年の熊本地震で体験した。また、人間の労働を省力してくれる技術ならいいのではと思うと、これも違う。交通・通信・情報手段の発達が人間をより一層多忙にして来たことは、各自おのれを省みさえすれば直ちに明らかだ。

しかし、われわれは「技術文明」を放棄できないのである。昔はクルマもケイタイもなくても、何の不自由もしていなかったと言っても、いったんそういうものを発明してしまうともう放棄できない。それは自動車ひとつとっても明らかで、この発明のおかげで日本だけで毎年四千人ばかりが死んでいる。怪我人はその何倍かいる。それなのにクルマのない社会などもう考えられない。クルマの所有や使用を制限するような政策を掲げる政党は選挙で大敗するだろう。まったく自然過程で、人間の意志ではどうにもならぬと言いたくなるではないか。

吉本氏は原発反対運動が大嫌いで、リスクの伴わぬ技術進歩はない、そのリスクを人間は引き受けてゆくべきだと言って、さすがの「戦後最大の思想家」もモウロクしたのではと疑われた。しかし、吉本氏を散々罵った原発反対派は、年間四千人の死者を出しつつ平気でクルマを乗り廻している。一体福島原発の放射能汚染で何人死んだか。吉本氏の発言は筋の通ったものだった。

私自身の考えを言うと、原発はなるだけ早く放棄すべきだと思う。原子エネルギーの管理は廃棄物処理も含めて「科学技術」の手に余ると考える。「科学技術」はより安全なエネルギー源を開発するだろうし、エネルギー使用のレベル自体を縮小する方向を考えねばならぬ段階に来ていると思う。

しかし問題は、物質文明= 科学技術の進展は不可避な自然過程かどうかということだ。マルクスはそう考えたし、吉本氏はその点において全くのマルクス派である。自らを省みて、その点が私は違うと思う。マルクス・吉本がそう考えるのも無理はないと認めつつ、私はそうは思わないとあえて言いたい。文明の賜物を保持しつつ、ピダハンのような管理と支配のないフリーな共同社会をめざすことはできると思う。できると思うのは私が根は夢想家だからである。必然のワナから自覚的に抜け出せるのでなくては、人間に生まれた甲斐がないと思うからである。

むろん現代社会という巨船の向きを変えるのは至難事である。勢い私はドン・キホーテたらざるをえない。しかし「科学技術文明」の向きを変える、あるいはそのレベルを抑制するのは、あくまで私たちの智恵の問題であり、やればできることだ。ただし「やろう」という合意形成が一番むずかしい。そういう合意にどうすれば到達できるのか。今の政党政治や議会制民主主義などでどうにかなる問題でないのは、明白といわねばなるまい。かといって収容所群島は二度とご免だ。

望ましい文明の見取り図なら、掃いて棄てるほどあるのだ。しかし、それを実現する手続き、いやそれ以上に心構えこそ問題なのだ。ラトゥーシュは経済の規模を六〇年代のレベルまでおとせという。しかし、どうやって。法律で強制するのか。抵抗する奴はラーゲリにぶちこむのか。なんだか聞き覚えのあるメロディのように思える。

問題に対するもっと根本的角度はないのかと問うと、つまりはおのれの霊的自覚の問題になるのかも知れない。

結局、四の五の言っている間に、文明社会は取り返しのつかぬところへ行きついてしまう公算が大である。すべてが人工化し計算し尽され管理され尽す状態に。近頃のベストセラーを読むと、遺伝子工学によって人類は不死の状態になり、かつ超人になるのだそうだ。そんなことを聞かされると、もうどうでもいいやという気分にならぬこともない。しかし私は、そうなるかどうかはやはり意志による選択の範囲内のことだと考えたい。

自然過程とは詮じつめると、文明的諸装置の出現・進化は必然であり、いったん獲得した文明的利便は放棄できないということだろう。しかし、原発というエネルギー発生装置が出現したのは人類史の必然 = 自然過程だったとしても、放射性物質を他のエネルギー源に替えることはわれわれ人間の自由な選択に属する。

自然過程という「物神」を素直に承認したくない。戦後の凡庸思想家、いや思想家などおこがましい一独学者である私の、これが最後の一句だ。

(『原発とジャングル』より抜粋)

書籍データ

原発とジャングル 表紙
概要原発に象徴されるのは現代の科学物質文明で、ジャングルに象徴されるのは物質文明に侵されていない民の生活。文明か未開か、進歩か後退かの二元論ではなくて、便利さや科学の進歩を肯定しながら、真の仲間を作ることが可能か。近代の意味を様々な角度から考えてきた著者が、エヴェレット『ピダハン』、ハンナ・アーレント『人間の条件』などの書物をひもときながら、近代の普遍的な問題を問う。
タイトル原発とジャングル
著者名渡辺京二
出版社晶文社
刊行日2018年5月21日
判型四六判上製
頁数244頁
定価本体価格1800円+税
ISBN978-4794969989