線量計と奥の細道 背表紙
こころの知恵

「3.11」に向き合う真っ直ぐな姿勢、野ざらしの覚悟

かつて私は、「叫ぶ詩人の会」という演劇的なバンドを組んでライブをしていた時代がある。語りや歌の内容は旅先で体験したことからの個的な、内側の葛藤を訴えたものが多かった。東西冷戦構造に大転換を呼びこんだ東欧革命。地雷原を進むことになったカンボジア。生命について思いを馳せたインドやガラパゴス諸島。そうした場所で出会った人々の表情や言葉から、人間を考え、人間を叫び、人間を歌おうとしたのだ。文字をつづる前に、私はまず旅人であった。

それなのに、『奥の細道』の現代語訳にとりかかったこの中年男は、仕事場から出ることもなく、資料を横に並べるだけの机上作業者となった。自分の原則に照らすなら、私は身を落としたのだ。

我が国を代表する紀行文を前にして、その道を歩いたこともない人間がなにやら代用品をつくろうとしている。こんな非本質的な行為があるだろうか。いや、こんな怠慢が許されるだろうか。

いったいなにをやっているのか? お前は旅人ではなかったのか?

彼方からの諫める言葉は毎日繰り返し聞こえてきた。加えてもうひとつあった。元禄二(一六八九)年に芭蕉と曾良が歩いたこの行程は、都県名なら、東京、埼玉、茨城、栃木、福島、宮城、岩手、山形、秋田、新潟、富山、石川、福井、滋賀、岐阜をはるばる辿る旅になる。このルートには、津波の被害だけではなく、放射性物質によって汚染された広大な地域が含まれている。太平洋側だけではなく日本海側にも原発を抜きには語れない二県があり、芭蕉が歩いた道はそこを貫いていた。

つまり、今この時代に奥の細道を辿るのは、江戸期の俳諧紀行に思いを馳せる旅であるとともに、私たちが抱えている問題に正面から向かい合う体験的、思考的行為であるとも言えるのではないか。

そこまでわかっているなら踏みだすしかない。

私はやはり、旅立つことにした。

【8月14日(火曜日)】

今日出発する。主に脚力に頼る旅だ。全行程約2000キロ。自転車で長距離を旅するのは初めてのことだ。原発事故の影響を受けた皆さんの声を聞きたいと思っている。半世紀生きてきた自身に課す新たな修行の場になりそうだ。頭に白いものが混じりだしていても、駆けていく道とやってくる日は常に新しい。ならばまだ間に合う。震災から一年半。今の日本がどうなっているのか、この目と耳と足で確かめる旅をするのだ。そして自身もまた、生きることについて考える日々にしようと思う。

【9月9日(日曜日)】

旅は9日目だ。朝ご飯を御馳走になったあと、渡辺さんの畑に案内してもらう。近くを流れる摺上川の土手に面した農地で、草が伸び放題になっている。「線量計で測る度にがっかりするから、もう最近は測ってないんだ」と渡辺さんは崩れた畝を踏みしめる。横の梅林は二年続けて収穫を見送ったとか。熟れても、ただ落ちて腐っていくだけの果実。

収穫時に野菜や魚を持ち寄って祝宴を開いたという隣の椎茸農家は廃業してしまったそうだ。セシウムを集めてしまう菌類は当分出荷できそうにない。キノコに頼ってきた農家は生活の基盤を失った。かつては自慢の作物を持ち寄ったであろう屋外テーブルが、雑草だらけの畑の隅で朽ちた粗大ゴミのように放置されている。のどかな風景のなかで、談笑を忘れたテーブルが現実を突きつけてくる。

渡辺さんが気にしているのは、「農産物だけではなく、生産者の安全まで行政が考えてくれているかどうか」ということだ。米の全袋検査や農作物のモニタリング調査など、安全性を訴えるPRはあっても、生産者の安全が話題になることはまったくないそうだ。農地の放射線量は高いままなのに……。

「地元で生きる人たちへの理解や共感がなければ、解決策も見えてこないよね」

周囲は美しい。朝の光が川岸のあらゆるものに宿り、燦爛たる帯をつくって揺れている。セキレイがそこで遊んでいる。でも、乗り越えなければいけない壁が、目に見えない存在として立ちはだかっているのはたしかなことだ。この土地の形あるものすべてに美が宿り、また等しく難題を抱えこんでいる。

うがったものの見方ではあるが、美しさはある意味で目くらましにもなり得る。恣意的にきらめきだけを提示するのはひとつの罠なのだ。「美しい国」などといった表現を乱発し、影で耐える無数の痛みを忘れさせようとするなら、美そのものも生命を失うだろう。あとは、強引な厚化粧と有無を言わせぬ政治が横暴を繰り返すことになる。

「飯塚」での一夜を、「湯に入りて宿を借るに、土坐に筵を敷きて、あやしき貧家なり」などと、芭蕉はあまり良い書き方をしていない。それもそのはず、先述のとおりここでの悲惨な一夜がきっかけになり、芭蕉は持病である腹痛と痔を悪化させてしまったらしい。そのせいで馬を借り、這々の体で飯坂を脱出することになるのだ。『奥の細道』の読者としてその事情を知っているせいか、飯坂温泉駅前の芭蕉像もなんだか色褪せて見えてしまう。たしかに頭から鳥の糞をかぶり放題ではあるが、ここの像は他の地域のものとはちょっと違い、みじめな雰囲気だった。草加の像も鳩の糞をかぶってはいたが、芭蕉と曾良が通過したというだけであれだけ盛り上がっていた。飯坂温泉の像はどちらかというと、芭蕉が好きな「羈旅辺土の行脚」「果てを行く旅」の言葉どおり、野ざらしの覚悟が表出している。

飯坂は良いところだと思う。風光明媚な上に、軽くて止まらない餃子がある。しかしここしばらくの不景気に加え、原発事故の影響が直撃している。廃業する温泉旅館がすくなくないとも聞く。一陽来復、捲土重来のためには、旅人の勝手な思いではあるが、駅前の芭蕉の像を拭いてあげることもひとつの方策ではないかと思った。

【9月11日(火曜日)】

松島と東松島の狭間にあった小さな食堂で焼きそばを食べた。そのあとは気を引き締めた。いや、自然とそうなった。すなわちここからは、大津波でほぼ壊滅したエリアをひとりで辿ることになる。犠牲者も多く出た土地だ。

ペダルを漕ぎ、海沿いの集落を行く。そして丘を越え、無音のなかに私は入った。

音はたぶん、なかったわけではない。小鳥たちもさえずっていたし、草地を揺らして風も舞っていた。数台の車も行き交ったと記憶している。でも、どういうわけか私にはなにも聞こえなかった。自分が真空状態のなかに入ってしまったようで、目と肌だけが光景を捉えようとしていた。

全壊した家屋はすでに瓦礫として撤去されているのだろう。住宅地だったと思われる場所は更地になり、夏草に覆われている。それでもそこに家があったとわかるのは、水道管や柱の跡などが草地に見え隠れするからだ。そして、半壊した家々はそのままの状態で点在していた。二階部分の損傷はすくなくとも、一階の窓はすべて突き破られ、柱と壁のみになっている。泥をかぶったカーテンが風を受けて揺れている。

片づけられた家と、こうして残っている家。その違いはなんなのだろう。復興に向け、すべてを一度に整理することなどもちろん不可能だ。優先順位は当然生じる。その結果、無惨な姿のまま残されてしまった家々なのだろうか。あるいはこうも聞く。持ち主を失った家は、今のところ手のつけようがないのだと。

JR東名駅は、プラットホームだけが残っていた。駅舎はなかった。仙石線の線路は大きくねじ曲がり、架線の電柱も倒れている。続く野蒜駅は鉄柱が横倒しになり、線路の敷石があたりに散乱していた。駅前のコンビニが半壊のまま陽の光を受けている。踏切の信号もすべて横倒しだ。その上を草の蔓が覆っている。

だれにも会わない。だれ一人歩いていない。本当にたった一人も見かけない。

真空はずっと続く。耳はなにも捉えない。すると突然、音楽が流れた。風に乗って聞こえてくるのだ。この荒涼とした地で初めて聞く音だった。防災無線のようだ。若い女性の声だった。

「今日は9月11日です。あれから一年半が過ぎました。お亡くなりになった方のご冥福を祈り、今から黙禱を捧げたいと思います……」

そう。今日はあれから一年半なのだ。壊れた踏切の横で、自転車にまたがったまま目を閉じた。すぐそばにも半壊の家があった。そこで暮らしていた人たちのことを思う。そして、9月11日という日付から、私はまた別の記憶の渦にも引きこまれていた。

2000年から3年近くニューヨークで暮らしていた自分にとって、今日9月11日はまさに大惨事を目撃した日でもある。ハイジャックされた二機の旅客機が突っこんだトレードセンタービルは、世界が荒れ果てていくその口火を切るかのように目の前で崩落していった。

私はあの日、同じマンハッタン地区のアパートにいたのだ。ブルックリン地区に引っ越す日とあって、テレビのケーブルも電話の回線もすべて切り、家財道具の入った段ボール箱を並べた部屋で目を覚ました。あたりが大騒ぎをしているのでアパートの50階まで上がってみると、ちょうど二機目の旅客機が突っこむところだった。

アパートの住人たちとともにそれからしばらく、救援のヘリコプターが飛んでこない二つのビルの大火災を見ていた。すると、片方のビルが上から下に向けて消滅するかのように崩れ落ちたのだった。あの時の住人たちの悲鳴、怒号、泣き叫ぶ声。やがてもう一つのビルも消滅した。黒煙はニューヨークの南半分を覆い、逃げてくる人々でアベニューは埋め尽くされた。

日本の家族や友人が心配しているに違いない。だが、連絡を取る方法がなかった。回線を切っている以上、部屋の電話は使えない。公衆電話はすべてパンクしていた。ブルックリンの新たな部屋まで行けば回線が通じている可能性があった。私はノートパソコンをリュックに入れ、逃げてくる人々に逆行してマンハッタン南東部のブルックリンブリッジを目指した。交通機関はすべてストップしているのだから歩いていくしかない。怪我をしている人。ビル崩壊の粉をかぶって真っ白な人。怒りで震えている人。戦争が始まると乾杯をしている男たち。泣き叫び地面に転がっている女性。実に多くの人たちを私は見た。

そして思ったのだ。国と国が戦争をし、終戦が来れば仲直りをするような時代はもう来ない。これからは、人間であるがゆえにテロと紛争が永々と続く時代が来る。パンドラの箱が開いたのだと。

あの日からも、11年。

時の過ぎ行く早さと、理不尽が必然のように組みこまれたこの世の仕組について圧倒的な無力感を覚えながら、私は再びペダルを漕ぎだした。

【9月12日(水曜日)】

雨合羽を着たままメグ号にまたがり、深川を旅立ったときとは正反対の気分で平泉の駅の方へと進んでいく。

疲れた。漕ぐのも、考えるのも疲れた。

雨は大粒のまま降り続く。もう百メートルだって進めない。

もうやめよう。こんなことはやめよう。胸が弱音でいっぱいになる。高い線量のなかで暮らしている栃木北部や福島の人たちのことを思った。

そうだ。もうやめよう。

半ば心に決めかけたとき、源義経終焉の地と言われる高館「義経堂」のある丘が見えてきた。私はずいぶんと迷った。雨のなか、この丘を上るべきか。もう旅は終えたと考えるべきか。

芭蕉は、歌枕を訪ねるという目的のほかに、憧れだった源義経の生前の痕跡、その残り香も旅のなかで求めていたようだ。だから当然のことながら、義経が住み、自刃したこの高館を訪れている。むしろ芭蕉が中尊寺まで足を延ばしたのは、高館訪問が主目的ではなかったかと思われる。

自分の旅の意義が明瞭ではなくなってしまった私は、高館への入口で足を止めた。芭蕉の足跡をそのまま辿ることにも、さして意味を感じられなくなってしまったのだ。

だが、そこで雨がふいにやんだ。水滴の煙幕が通り過ぎたかのように、突然やんだ。そして急に明るくなりはじめた。私は雨合羽のまま拝観料を払い、なにも考えられない状態で義経堂へと続く石段を上りはじめた。

どんどん明るくなってくる。空の機嫌が急変したかのように光があふれだした。そして上り切ったとき、思いもよらない光景が広がっていた。

だれもいない義経堂。

たった一人、対峙した世界。

そこにあったのは、北上川に貫かれる広大な田園地帯と、これまで観たことがないほどの完璧な太い虹だった。雨のことなど忘れてしまったかのような陽射しに、地平の緑がきらめきで応えている。そこに巨大な輪をかけ、虹が堂々と輝いている。

矛盾を背負ったままの私に、「それでも旅を続けろ」とだれかがささやいている。

そう……たしかに私はその声を聞いたような気がしたのだ。

夏草や兵どもが夢の跡

私はしばらくそこに佇んでいた。虹が消えても、北上川の輝きを眺め続けた。

今回の旅はここまでにしよう。東京に戻ろうと思った。
そして、また旅を続けようと思った。

(『線量計と奥の細道』より抜粋)

書籍データ

線量計と奥の細道 表紙
概要「風評被害」とやらを恐れ、あるいは「忖度」して口を噤むうちに、自分たちの怒りや悲しみそのものが、風化してしまっていないか──津波にさらわれた町、福島第一原発事故による「実害」を目の当たりにし、東日本大震災の被災地に重なる芭蕉がたどった道のりを、野ざらしの覚悟で駆け抜ける。線量計の数値が示した現実と、被災した人たちの言葉の狭間で逡巡しながら、生きる、ということを考えた日々。「3.11」後の日本の姿を、目と耳と足で確かめた路上の記録。写真67点・地図5点・書き下ろし。
タイトル線量計と奥の細道
著者名ドリアン助川
出版社幻戯書房
刊行日2018年6月29日
判型四六上製
頁数320頁
定価本体価格2200円+税
ISBN978-4864881517