バー「サンボア」の百年 背表紙
社会の知恵

その昔、男ばかり集まるバーがあった──サンボア創業の地・神戸を訪ねて

この旅の初めに私は、コウベハイボールの思い出とともに神戸に来た。

一月の末とはいえ、そう気温は低くない。低くはないがときおり風もあり、日陰に入るとやはりひんやりと肌寒い。午前十一時三十分、阪急電鉄神戸三宮の駅前。さすがに平日の昼時分とあって、そろそろ早めの昼食を摂ろうとビジネスマンたちがお目当ての店にでも向かっているのか、右へ左へと行き交っている。このあたりは土曜や休日になると街の様子ががらりと変わり、買い物客や観光客で行き交う人々の服装の色彩もにぎやかになる。今ではここ三宮が神戸の中心になっている。「今では」と書いたのは、サンボアができたころはもう少し西に神戸の中心街があったからだ。

私がこの町から足が遠のいてもう二十五年以上になる。現在の朝日ビルは、当時の面影を少しも残してはいない。平成二(一九九〇)年に取り壊され、すっかりモダンに建て替えられたからだ。

そのモダン。大正・昭和初期にはよくこの言葉が使われた。モダンとは、その時代のもつ背景から、少し離れたところにある斬新さ、といったイメージである。昭和九(一九三四)年、昭和初期に建てられた重厚な神戸証券取引所、のちの旧神戸朝日会館はその時代のモダンな色合いを残していたように私には感じられた。

ふくらみをもったエンタシスのような柱、その柱に挟まれたドーム状の梁、建物のカーブに沿った曲線の回廊。どこをとっても直線的な現代のビルとは一線を画していた。新しいビルが「モダンになった」と書いたが、単に現代的になっただけである。今ある朝日ビルはどこにでもある建物であり、斬新さを感じることはない。この点では、かつての朝日会館のほうがモダンである。当時の面影は、ファサードの一部に単なるデコレーションとして、まさしく「張りついた」状態でその姿を見ることができるだけだ。数年前に建て替えられた東京・銀座の交詢ビルの入口に、かつてのファサードが残されているのと同じ具合だろう。

この「モダン」という言葉が、サンボアの歴史を語るうえで重要なキーワードとなる。単に、「現代的」「近代的」と直訳したのでは、二十世紀の初頭、大正から昭和にかけてのその時代人のもつ感覚、西洋に対する強烈な憧れと、それ以前の時代から引き継がれてきた伝統の狭間で、いきいきとした時代の色合いを表現することはできない。

その昔、男ばかり集まるバーがあった。そのひとつが神戸朝日会館にあったコウベハイボールである。男ばかり集まるのには理由がある。この酒場の主は河村親一といったが、彼は女性客を好まなかった。若い男女のカップルも、やはり好まない。ひと昔前にはこういったバーの主人は珍しくなかった。東京・新橋にあったトニーズバーも、女性だけの入店はお断りしていたと聞く。そもそも、私がサンボアで働き出した昭和六十二(一九八七)年ごろも、圧倒的に女性客は少なく、たまに女性がドアを開けて入ってくると、カウンターに居並ぶ男たちが「珍客」とばかり一斉に視線を浴びせかけたものだった。バーは長きにわたり、男たちの聖域だった。

一九八八年、私が初めてニューヨークを訪れたとき、一八八四年創業という三番街のP. J. Clarke’s というバーによく通っていた。そのころはまだ、MEN’S と書かれた男性用のトイレしかなかったと記憶している。古い酒場はある種のmen’s saloon であった。その男たちの聖域を守りたいと思う一徹な主人は、そこに集う男たちにとっては心地よく、頼もしい存在だったに違いない。

トニーズバーも、そんな店だった。ここは平成十三(二〇〇一)年にマスターである松下安東仁氏、通称トニーさんが鬼籍に入られ、そのあと姉のベッティーさんが名店のカウンターを守っていたが、同二十一(二〇〇九)年十二月二十八日、ついに多くのファンに惜しまれつつその歴史を閉じた。ベッティーさんの年齢ゆえのことらしい。のちに詳しく触れるが、祇園サンボアのカウンターに立つ中川立美も、祇園サンボアに入る前、このトニーズバーで二年ほど修業した。今でもこのバーの話は、私が銀座の店に立っていると、ときおり漏れ聞こえてくる。「名店」とはこういうものだろうと思う。

さて、コウベハイボールである。平成元(一九八九)年十一月二十四日付の朝日新聞に、河村親一氏を取材した記事がある。

「戦争が終わって、軍隊から大阪へ帰ってきたのが昭和二十一年。一面、焼け野原で、阿倍野駅から大阪城の天守閣が見えた。父親の知人に声をかけられ、ミナミにあった『フランセ』(筆者注──「仏蘭西屋」とも言った)というバーに勤めたんです」

「客も戦前から外国で本場の酒飲んでる人が多かった。こっちが一人前に蝶ネクタイしてカクテル作ってると、客が『おい、何杯分作ってるんや』。『三杯分です』と答えたら、『それやったら一杯半や』と言う。グラスを三つ置いて注いだら、ぴったり一杯半しかない。顔から火が出ましたわ。ハイボール作るとき、炭酸を次々六本抜いてテーブルに並べさせる客もいた。じっと見て一本を指さし『これで作って』。あとの五本分も代金払わはりました」

修業中のころを語ったものだが、その当時六十七歳の老バーテンダーは女性客や若いカップルが来るなり「もうエエから、三宮でも行ったら」と、こんな調子だった。カクテルなど注文すると「三宮に行きいや」と、やはりばっさり切り捨てる。三宮駅周辺やそこより山側を、この主は三宮と表現しているらしい。そこより海側にあるこの店の辺りと、どうやら区別しているようだ。山手は河村氏にとっては洒落た感じだったに違いない。それにもめげずに「そう言わんと、ジンフィズ、作ってえな」と哀願すると、意外とニコッとした表情をして作ってくれる。材料は揃っているのだ。河村氏はそんな人だった。

当時、とにかく男たちは、まだ日の高いうちからこの主の作るハイボールを目当てに集まってくる。時代の流行とは無縁な、ハイボールだけにこだわり続けた、そういう酒場だった。そして、このコウベハイボールの前身がサンボアである。河村氏は、鍵澤時宗に誘われてから三十年あまりここに立っていた。しかし残念なことに、朝日会館が平成二(一九九〇)年に改築のため取り壊しになり、このコウベハイボールも、そして主の河村親一氏も私たちの業界から退いた。先の朝日新聞の記事は、惜しまれながら消えゆくコウベハイボールと河村氏を、その半年前に取材したものである。それから、さらに四半世紀以上が経つ。

(『バー「サンボア」の百年』より抜粋)

書籍データ

バー「サンボア」の百年 表紙
概要1918年創業の洋酒バー「サンボア(SAMBOA BAR)」。現在、大阪・京都・東京に14店を展開する稀有なバーの100年史を辿る。サンボアの前身は神戸・花隈の地にあった「岡西ミルクホール」。創業者の岡西繁一が文芸誌「ザムボア(朱欒)」に因み、店名を「サンボア」に改称、そこから店の歴史が始まった。残された資料と関係者への取材に基づき、それぞれの店の変遷を辿るなかで、日本のバー文化史が浮かび上がる。
タイトルバー「サンボア」の百年
著者名新谷尚人
出版社白水社
刊行日2017年12月13日
判型B6判
頁数240頁
定価本体価格2000円+税
ISBN978-4560095898