志士から英霊へ 背表紙
社会の知恵

天皇家の墓はどのように作られてきたのか?

六世紀以前の天皇(まだこの呼称は無かったが)の墓は、小高い丘を築いて造営される巨大なものだった。エジプトのファラオや中国の皇帝に見られるのと共通する、王権の威信を視覚的に示す目的だったと考えられている。ところが、七世紀に仏教が広まると墓は次第に小さくなり、九世紀以降は寺院に塔を設ける程度になっていく。天皇は自分たちの先祖の墓に詣でて祀る行為をしていない。

京都の南東郊にある泉涌寺は一二四二年に四条天皇の葬儀を執行し、十四世紀には北朝天皇の葬儀を独占的に実施して以来、「皇室専用」となる。墓地も、十四世紀以降は後深草天皇をはじめ十二名の天皇が伏見にある深草北陵に、十七〜十八世紀の天皇は続けて十一名が当時は泉涌寺境内の月輪陵に葬られている。光格天皇からの三代も、現在の正式名称こそ違え、場所としては同じ泉涌寺に墓が営まれた。ただし、墓は仏教式に遺体を火葬して遺骨の状態で葬るための場所にすぎず、先祖の霊魂は墓ではなく、宮中祭祀や仏教寺院での供養によって祀られた。

他方、天皇の墓はもともと仏教寺院とは別に造営されていたことを再認識し、それを顕彰しようという思想運動が、儒学・国学の側から提起される。その象徴として初代の神武天皇の陵墓探しが始まる。徳川光圀は幕府に神武天皇陵の整備を建白したけれども、そもそも神武天皇の墓がどこにあるのかすらわからなかったために具体化しなかった。一八三四年には徳川斉昭が、光圀の遺志を継承して修築を建議している。

斉昭は一八四〇年の光格上皇の崩御に際して、古代式の山陵建設も提案した。蒲生君平(一七六八〜一八一三)は若い頃から六歳年下の藤田幽谷と親しく、水戸学の思想的影響を強く受けた。彼は『大日本史』の「志し(制度沿革)」がまだ無いことを憂慮し、自分がそのもとになるものを作成しようと志す。そして、歴代天皇の陵墓の現状を調査して『山陵志』を著した。この作業も幽谷との交友の結果だろうという推測がなされている。

一八六二年、宇都宮藩が提案して、同藩の負担で陵墓修築が大規模に実現し、神武天皇以下歴代の天皇陵が整備された。宇都宮は蒲生君平の故郷であったし、同藩は当時尊王攘夷派が実権を握っていた。一八六六年に孝明天皇(在位一八四六〜一八六六)が急逝すると、その墓は千年ぶりに仏教の手を離れ、泉涌寺のそばに山陵として営まれた。もちろん、火葬ではなく土葬である。孝明天皇から四代続けて、この方式が踏襲されている。水戸学は天皇の墓葬制度も変えたのである。なお、今上天皇陛下は、二〇一三年に自身の葬制について意見を表明し、孝明天皇以来の山陵制度を踏襲しつつも、土葬を止めて火葬に戻すことを強く希望しておられる(宮内庁、二〇一三年)。

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一八七〇年に熊本藩から中央政府に提出された建白書は、「『王政』の理念のもとに天皇を頂点とした民政機構の形成を進めてきた」実績にもとづいていた。儒教の王道(倫理的に正しい王による徳治主義の政治が実現すること)の理想を、この時期の為政者たちは中央・地方のレベルにかかわらず、夢に見ていた。その象徴が天皇だった。天皇は一八六〇年代以降、政治の表舞台に登場してさまざまな思想的立場の者たちに利用されていく。長らく日本の政治・社会を支えていた仏教に代わって、統治原理として用いられるようになったのは、西洋由来の近代国家の理念と、日本風に脚色された朱子学的伝統思想との混淆物によるものだった。天皇はまさにその象徴だった。しかしながら、その先には一九四五年の破局が待っていた。

日本の敗戦後、連合国軍総司令部(GHQ)は侵略戦争遂行の思想資源となった図書を没収して閲読を禁じたが、そのなかには水戸学関係の図書が四十冊含まれている。「GHQの没収対象本の中ではどうやら狙い撃ちにされて、排除された主要テーマの一つであった」。水戸学が近代天皇制のイデオローグであったと、戦勝国から認識されていたことを示している。

GHQの諸政策によって、あるいは、その後も絶えざる圧力や介入によって、米国は日本を理想的で従順な同盟国として育て上げてきた。しかし、その裏面には、水戸学の亡霊が今なおうごめいている。天皇をめぐる諸制度が一九四五年を境に大きく改定されたはずであったにもかかわらず、一世一元、皇統譜、陵墓制といった諸々の点で水戸学の遺産をいまも継承していることは、その証拠である。そして、より重要なことは、こうした動きがごく少数の確信的な右翼によって担われているのではなく、その由来を知らないにもかかわらず、広い大衆的基盤を持つ国民意識によるものだということである。

(『志士から英霊へ』より抜粋)

書籍データ

志士から英霊へ 表紙
概要反逆の罪に問われて死罪となった吉田松陰は、明治になって甦り靖国神社に祀られた。西郷隆盛も、時代によって、人によって評価がわかれる。幕末に尊王攘夷を掲げた志士たちの実像は、為政者や時代の空気によって書き換えられる。そもそも尊王攘夷とは、儒教から出てきた考え方で、君主の権威を擁護して異民族を国外に排斥することである。幕末の志士たちは、列強の脅威をはらい天皇を担ぎ出して維新を遂行した。やがて彼ら自身が英霊として担がれ、1945年まで生き続ける。志士から英霊へ──継続あるいは転換はどのようにおきたのだろうか。
タイトル志士から英霊へ
サブタイトル尊王攘夷と中華思想
著者名小島毅
出版社晶文社
刊行日2018年6月20日
判型四六判並製
頁数256頁
定価本体価格2000円+税
ISBN978-4794970367