ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと 背表紙
こころの知恵

この地球には「反省しないで生きる人々」がいる

私自身が、ボルネオの狩猟採集民「プナン」のフィールドワークの初期段階で抱えていた違和感のひとつは、「プナンは日々を生きているだけで、反省のようなことをしない」というものだった。私が町で買って持ち込んだバイクを彼らに貸すと、タイヤをパンクさせても、何も言わずにそのまま返してくる。バイクのタイヤに空気を入れるポンプを貸すと、木材を運搬するトレーラーに轢かれてペチャンコになったそれを、何も言わずに返却してくる。こうした様々な体験がその違和感には含まれる。

プナンは、過失に対して謝罪もしなければ、反省もしない人たちだというのが、私の居心地の悪さに結びついていたのである。そして、この違和感は、プナンでのフィールドワークを始めてから十年を超えた今でも、大きな謎のままである。

酒を買う金を捻出するために他人の所有物(チェーンソーの刃、銃弾、現金など)を盗む癖のあるプナンの男は、妻や家族にその振る舞いを咎められると、どうやって金を工面したのか不明ながらそれまで以上に酒を買って、泥酔するようになった。咎め立てに対するあてつけのようにも思えたが、彼はまったく反省していないように見えた。やってはいけないことをしたという自覚があるのかどうかさえも、私には分からなかった。謝罪どころか、自分のしたことを反省する素振りそのものが見当たらなかった。

ある時、共同体のリーダーは、もともと彼らの土地である森林に対する木材伐採企業からの賠償金を前借りして、それを頭金として、四輪駆動車を購入した。プナンには運転免許を持っている者はなく、近隣焼畑民のある男から名義を借り、煩雑な手続きを経て、それはようやく手に入れられたのである。その車にハンターたちを乗せてヒゲイノシシ猟に連れて行き、獲れた猪肉を売って得た現金を山分けするとともに、車のローンの支払いに当てようと企てたのである。リーダーは、車の運転を、かつて木材伐採キャンプで車の運転をした経験のある男に任せた。

ヒゲイノシシが運よく獲れた場合には、獲物をしとめたハンターたちが、車でたくさんの労働者がいる木材伐採キャンプまで売りに行くことになった。木材伐採キャンプから狩猟キャンプに戻ってきたハンターたちは、いくらで売れたのかを、共同体の全メンバーに報告した。売上金額は妥当なものだった。しかし、不思議なことに、老いて狩猟行には同行しないリーダーにはいつも売上金の十分の一ほどの金額しか手渡されなかった。残りの九割にあたる売上金を何に使ったのかはいっさい明かされることはなかった。ハンターたちは、自分たちに対する分配金を手にするのを遠慮した。売上金で酒を飲んだに違いないという噂が、女たちの間に広まった。リーダーも、そのことを薄々気づいているようだったが、あえて取り沙汰しなかった。

もやもやとした状況の中、これ以上こんなことが続くとローンが支払えなくなり、せっかく手に入れた車を手放さなければならなくなるという危機感が広がって、男女すべてを含む共同体のメンバー一同が話し合うことになった。その場でもまた、酒代に金を使ってしまったと思われる個々のハンターの責任が取り沙汰されることはなかった。話し合いの場では、ドライバーが主に売上金の管理を担えばいいという、あまり有効ではないと思われる策が示されただけだった。案の定、売上金が酒代に消えてしまってうやむやにされる事態はその後も続き、結局、ローン支払いのためのお金を捻出することができなくなって、わずか二ヶ月あまりで四輪駆動車を手放すことになった。

狩猟や漁労に出かけたり、用事で出かけたりする時、失敗や不首尾、過失について、プナンは個人に責任を求めたり、「個人的に」反省を強いるようなことをしない。失敗や不首尾は、個人の責任というより、場所や時間、道具、人材などについての共同体や集団の方向づけの問題として取り扱われることが多い。失敗や不首尾があれば、話し合いの機会を持つが、そこでは、個人の力量や努力などが問題とされることはまずない。ましてや個人の責任が追及されるようなことはなく、たいてい、長い話し合いの後に、あまり効果を期待できそうにない今後の方策が立てられるだけである。

なんとも不思議なのである。

思い立って、逆に、現代日本にこのプナンのやり方を持ち込んでみることを想像してみた。しばらく考えていて気づいたのは、我々のやり方に行き過ぎがあるのではないかということだった。営業や学業成績の不振や停滞は個人の怠慢であり、目標の未達は個人の努力不足であり、場合によっては、その「失態」は、おせっかいにも数値化されることで、反省を個人の内面へと強いるということがおこなわれている。そのことによって、個人の悩みは深まり、生きにくさを感じるようになるのかもしれない。

個人へと責任を帰着させる時、個人は精神的にも身体的にも大きなダメージを受ける。個人の能力や技量は独立排他的に個人のみに帰属するものとみなされ、個人に責任が帰され、その責任が追及されるような文化は、どのようにして生みだされたのであろうか。私は、反省しないプナンの不思議なやり方を見ていて、ふとそうした思考実験をおこなうようになったのである。

そして私は、集団や共同体による目標と方向づけをメンバーがゆるやかに共有し、不首尾や失敗を、誰のせいにするのでもなく、反省もせず、次の方策へと進んでいくような、一見すると責任放棄主義のように見えるプナンのやり方を、フィールドワークをつうじて、少しだけうらやましく思うようになった。

プナン社会には、そのおかげであろうか、自死や精神的なストレスというものがない。ないと言い切れるかどうか分からないが、少なくとも、顕在化はしていない。私もプナンにならって、現代日本社会で反省しないで生きる努力をしてみたいと思ったりもする。あるいは、実はなんとも思っていないのだけれども深く反省しているように見せておくというような、裏技を使えるようにしたい、とも思ったりもする。

(『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』より抜粋)

書籍データ

ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと 表紙
概要ボルネオ島の狩猟採集民「プナン」と暮らす中で、人類学者が考えたこと。ニーチェの思想をてかがりに、豊かさ、自由、幸せとは何かを根っこから問い直す、刺激に満ちた人類学エッセイ。
タイトルありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと
著者名奥野克巳
出版社亜紀書房
刊行日2018年5月24日
判型四六判並製
頁数352頁
定価本体価格1800円+税
ISBN978-4750515328