古城秘話 背表紙
社会の知恵

名古屋城の金鯱に秘められた哀しみ

鯱(しゃち)というのは元来、イルカ科に属する海の動物で、広くインド洋を遊泳し、鯨でさえ襲うといわれているが、室町時代から城郭の屋上にとりつけられるようになったのは、それを象徴化した非現実的海魚である。

一見すると虎と魚の合成物のような奇怪な姿をしているが、いかにも獰猛勇壮な相貌を持っているため、敵を威圧する意味もあるが、もともとは、鯱は鯨のように水を噴くものとされたため、火災除けのまじないとして屋上におかれた。

姫路城などは、大天守だけで十一個の鯱が天に躍っているが、通常は天守の上層に一対、多くても二、三対おいてあるだけだ。それらの中で、特に名古屋城のそれが、他を圧して著名なのは、いうまでもなく、それが黄金の鯱だからである。

この鯱の心木は加藤清正が作ったという伝説もあるが、もちろん嘘である。頭部がばかに大きくて、からだがはなはだ短い。眼が異常に後の方にくっついて、猛々しさの中にちょっとした愛嬌さえ感じられる。扇形の巨大な尾を深くそらせて拡げ、雄大な感じだ。しかもその全身が黄金で覆われているので、文字通り豪華絢爛である。

一対の南にあるのが雌、北にあるのが雄。

いずれも高さ八尺一寸五分、長さ四尺一寸五分、鱗は大小合せて二百三十六枚。

作製された当時の使用金量は、大判で千九百四十枚、価格に直すと一万七千九百七十五両。慶長年間には、米一石が銀十五匁位だったから、それから逆算すれば、現在の十四億円位に当る。

南方一里を通る東海道や美濃街道をいく旅人も、その輝く光を望見することができたし、熱田の浜には金鯱の光のため、魚がよりつかなくなったといわれた。

名古屋城士はもちろん、城下の庶民たちがこれを城のシンボルとして、どれだけ誇りにしていたかはいうまでもない。

──みろ、あれが尾州徳川家の御威光をそのままに天下に示している。

という自負と歎賞の目をもって見上げていた金鯱に、ふっと妙な雑念がからみつくようになった。

人間が下品になったわけではない、罪は藩の財政にある。江戸中期以後、各藩とも例外なしに、藩の台所は苦しくなった。年貢増徴、禄米借上、借金、倹約奨励──どうやっても収支のつじつまが合わない。

──困った。

と、空を仰いで歎息した時、当然、眼に入るのは、金色燦然たる金鯱である。

──あれを鋳直したら。

誰が最初に考え出し、誰が最初にいい出したかは分らないが、

──あれは金の純度の極めて高い慶長大判を薄くのばして張りつけたものだ。あれを、もっと純度の低い金に変えても、外見は大して変りはないだろう。国用逼迫の折柄、あのままではもったいない。

ということになった。

享保十一年のことである。

心木の朽損個所を修理すると称して、天守の屋上からとり下ろし、金の鱗を、鋳つぶし、純度の低い金にとりかえた。もちろん一般には内密に、天守東側の広場に塗籠の小屋を建てて、その中で吹替えをやったのである。

一度、この味をしめると、文政十年にも、弘化三年にも、資金捻出のため、同じような吹替えをやった。鱗の金質は、最初のものとは比較にならない純度の低いものになった。

ともあれ、藩当局でさえ、金鯱をみて、その雄渾豪奢な姿に、藩の威風をしのぶよりも、その貨幣的価値に心を動かすようになったとすれば、一般庶民が同じようなことを考えるようになったのは当然であろう。

──なんとかしてあいつを盗めねえかな。

と、舌なめずりした奴も必ずいたに違いない。年中これみよがしに光り輝いている山吹色の魅力は遂に、金鯱盗人柿木金助という伝説を生んだのである。

柿木金助は実在の盗賊である。宝暦十三年磔刑に処せられた。だが、彼が凧に乗って天守の屋根に降り、金鯱を盗んだというのは、作りごとである。当時、天守閣の修理が行われたり、御金蔵に盗賊が忍びこんだりした事実があったのにからませて、芝居作者がでっち上げたでたらめに過ぎない。

だが、実際に金の鱗が盗まれたことが三度ある。いずれも明治以降のことだ。さすがに旧藩時代に城の天守から盗むほどの奴はいなかったのであろう。

最初の盗難事件は、明治四年二月。

名古屋城破却の議論が起こり、金鯱も鋳つぶして旧藩士の救済資金に充てようということになり、天守から取り下ろされ、陸軍名古屋分営に保管されていた。

盗んだのは、その番兵北田義方である。

けちな男で、盗んだのはたった三枚、石垣の中に埋めて匿しておいた。

すぐに見つかり、犯人の北田は練兵場に引き出されて銃殺された。今ならこんなことで銃殺されるはずもないが、まだ旧幕府時代の厳しい法律が適用されていた頃だからである。

この盗難事件のすぐ後で、金鯱は宮内省に献上された。

翌五年、雄の方をウィーンの万国博覧会に出品、雌の方は同七年金沢内国博覧会に出品した。すこぶる評判がよかったので、名古屋では、金鯱が惜しくなり、安場県令に頼んで宮内省にお百度をふみ、明治十一年に再び、この天守閣に逆戻りした。

第二回の盗難事件があったのは、宮内省で東京博物館に委託保管中であり、怪賊が侵入して金鯱の一部を盗み去ったというが、詳細は不明である。宮内省の面目上、おそらく極秘の中に補修してしまったのであろう。

第三回の盗難は、昭和十二年一月。

年もあけて間もない七日朝、市の技手をしていた男が、なに気なく天守を仰ぐと、旭光に輝いているはずの金鯱の半ばが、どす黒い地肌を出しているのを見つけて仰天した。

所轄の新条署で早速調べてみると、北側の雄の方にかぶせた金網が一尺四方ほど破られ、なんと金鱗五十八枚がペンチで剥ぎとられている。雄の鱗は百十八枚だから、半分をごっそり盗んだわけだ。

怪盗は、市が城の実測図を作るために天守に架けておいた足場を利用して、夜陰に乗じて屋根によじ上ったものらしい。

警察では各新聞社に記事掲載禁止を命じると共に、極秘裡に必死の捜査をつづけた。その結果、

──犯人はおそらく金鱗を鋳つぶして金塊とし、少量ずつ大阪方面に売却するであろう。

と、目星をつけ、大阪府刑事課の応援を得て、大阪市内の貴金属商・地金商に厳重な手配をしていると、果して一月廿三日午後、大阪市東区平野町の今岡時計貴金属店に、中年紳士風の男が現れて、長さ七寸、直径四分位の金の延棒六本を示し、

「一匁五円二、三十銭で買ってくれぬか、よければまだ二貫目位ある」

という。

──明日、お引取しましょう。といって帰し、翌日刑事が張り込んで、逮捕した。

犯人は佐々木という当年四十歳の男、名古屋刑務所から、前年末出所したばかり。行方の分らない妻子を探す金が欲しさに、拝観者に混って城に入り、小天守裏の物置にかくれて夜を待ち、屋上によじ上ったのである。

懲役十年をいい渡された。

事情を知りながら、鋳潰しを引き受けた根本某、その売捌きの一部を引き受けた水樋某の両名もそれぞれ懲役一年、同八カ月を判決されている。盗品はすべて買い戻し、三月九日の金鯱の修復を終えた。

それから八年後、空襲によって金鯱は天守もろとも灰燼に帰したが、戦後昭和卅四年天守再建に伴って、新しい装を以て再現されたことは周知のごとくである。

(『古城秘話』より抜粋)

書籍データ

古城秘話 表紙
概要「文化的遺産はすべて、それをめぐる人とのかかわり合いにおいてこそ、後世の人々の心をより強く打つものなのだ」隠密が潜み、裏切りが行われ、亡霊がさまよう。──北は松前城から南は鹿児島城まで、全国三十の古城名城にまつわる秘話裏話伝説記録を、そこに込められた哀しみと憤りと、怨念と呪詛と、闘いとその血汐とともに鮮やかによみがえらせる。
タイトル古城秘話
著者名南條範夫
出版社筑摩書房
刊行日2018年2月7日
判型文庫版
頁数267頁
定価本体価格680円+税
ISBN978-4480434968