台湾生まれ 日本語育ち 背表紙
社会の知恵

失われた母国語を求めて

自分が日本人ではないと意識するとき、わたしは 、自分にとってほとんど唯一の、自由自在に操れる日本語を、自分の「母国語」と言い切ることができない。逆に、こんなにも親密な関係を結び得ているのだから、日本語こそがわたしの「母国語」なのだ、とあえて言いたくなるときもある。

ふりかえってみると、自分の「母国語」とは何か、と考えだすようになったのは、わたしが本格的に小説家を志すようになった時期と重なっている。もっと言えば、当時のわたしは、小説を書くことを試みながら、日本の東京で育つことになった台湾人の自分が、複数の言語──日本語、中国語、台湾語──とどんなふうに関わってきたのか、ひたすら考察していたように思う。それはわたしが自分のニホンゴを模索する過程でもあった。

2014年3月初旬、育った国の言語で書いた本が、生まれた国で翻訳・刊行されることになった。

日本育ちの自分が日本語の書物を愛読するように、台湾出身の父や母が中国語の書物を読んできたことをわたしは知っている。中国語は、両親の「母国語」であり、わたし自身も台湾で育っていたのなら、今のわたしの中で日本語が占めている地位には、まちがいなく中国語があったはずだ。台湾人に読まれるために翻訳されたわたしの小説の読者の中には、台湾で育っていたわたしがいるかもしれない。半ば妄想に近いものだけれど、わたしは中国語を単なる「外国語」だとは到底思えないのだ。

台湾でのわたしの小説の題は、『來福之家』。

原題の「の」が「之」になっている。そう思いながらLái fú zhī jiā とつぶやいてみる。その音ときたら「らいふくのいえ」とは似ても似つかない。

まったく異なる響きを奏でるコトバなのに、日本語と中国語は漢字という文字を共有する。ただ、共有といっても、完全一致ではない。同じだけど、ちがう。ちがうけれど、同じ。たとえば「来」と「來」。あるいは「温」と「溫」。

おそらく日本語を全然知らない台湾人も「温」という字を見たらウェンと読めるだろうし、中国語がまったくわからなくても大抵の日本人は「溫」を「オン」と読むことができる。生まれた国と育った国を、どちらも「母国」と呼ぶのなら、わたしの「母国」と「母国」の文字は、漢字でゆるやかに結ばれている。

『來福之家』の発売日にあわせてわたしは台北に行った。出版元である聯合文學では、わたしの「帰国」を温かく歓迎してくれた。出版社の方々との歓談は、日本語ができる担当編集者に助けられながら主に中国語でやりとりしたが、新聞取材の際は通訳を介して日本語で喋らせてもらった。

記者が訊く。

「請給台灣讀者說幾句話」
(台湾の読者にむけてメッセージをお願いします)

「自分の小説が、台湾で読まれることはとてもうれしい。台湾はわたしのもう一つの母国ですので」と言おうとして、「台灣的讀者也能讀到我的小說、讓我非常高興。因為台灣是我另外一個母國」

思い切って中国語で言ってみる。

われながら舌足らずではあるが、「国外」で育ったわたしの中国語を、台湾の人々はほほ笑ましく迎え入れてくれる。

台湾語もできるの? という中国語が聞こえる。

現在、「台湾語」と一般的に呼ばれている言語は、福建省南部で話されていた閩南語を起源としたコトバのことを指す。台湾では、閩南語を話す福建省南部から移住した人々の子孫が総人口の圧倒的多数を占めている。いつしか多数派の彼らは自分たちの母語を「台湾語」と呼ぶようになった。

わたしは子どものときの記憶を辿って、大人たちが喋っていた台湾語を自分流に再現してみせる。

「グァ・エヒャン・ゴン・タイグー・チッススラー」
(わたしは台湾語が少し話せます)

わたしの想像以上に、場は沸いた。

どこからどう見ても日本人にしか見えないわたしの口から飛び出る台湾語は、台湾の人々に特別な感慨を抱かせるようだ。それはわたしが中国語を口にしたとき以上なのだろう。わたしより中国語に長けている日本人は星の数ほどいる。しかし中国語は流暢でも、台湾語をすらすら話せる日本人となると、まだ少ない。台湾では、(特に外国人にとっては)公用語である中国語ができれば、ひとまず不自由はないからだ。日本語を一言も知らない日本人はめったにいないように、中国語がまったくできない台湾人は皆無に等しい。

むしろ、台湾語が「母語」ではない台湾人ならいる。台湾語の代わりに客家語やタイヤル語やアミ語などが「母語」である人たちだ。

台湾には、プヌン族や蘭嶼のタオ族など、ずっと昔から台湾の島々に住んでいた原住民族──台湾では先住民をさすのに「原住民(もとからいた人たち)」という表現をする──のコトバが、まずある。中国大陸沿岸部出身の漢民族が続々と台湾に移り住んだのは17世紀。彼らが話すコトバは、のちに台湾語と呼ばれる閩南語、客家語、さらに国共内戦後は、中国各地から移住してきた外省人たちの出身地ごとの方言……台湾では、公用語である中国語の他に、幾つものコトバが響き合う。

民主化が進んだ今でこそ、交通機関での車内アナウンスを中国語、台湾語、客家語、英語と四つの言語で行なうなど、複数の言語を平等に扱う社会を目指しているが、戒厳令が解除される1987年までは、公の場で中国語以外の言語を使用することは禁じられていた。

蔣介石率いる国民党政府が台北を「中華民国」の臨時政府としたときから、中国語は「國語、guó yǔ」と呼ばれ、台湾において最も特権的な言語となった。もともと「國語」とは、辛亥革命を経て大陸で中華民国が成立した際、北京官話を基礎に標準語として政府が制定し、普及を進めたコトバのことだ。

母が言っていた。

──國語、しゃべらないと、先生ぶつ。

母は、ぶつ、の代わりに、パー、と言うときもあったし、打(dǎ)、と言ったこともあった。パーは台湾語、打(dǎ)は中国語。だから母は少なくとも三回はわたしにその話を聞かせたことになる。

1950年代初頭、国民党政権は台湾全島を統治下におくと、「国民」に対して徹底した「國語」教育を施した。

母と同世代の台湾人──ということは父も──は、皆、中華民国の国民としてそうやって「國語」を、中国語を叩き込まれたのだ。

その事実を意識すればするほど、わたしは中国語を自分のもう一つの「母国語」というのをためらう。国家によって鞭打たれながら習得せざるを得なかった言語を、人は「母国語」と呼べるだろうか?

わたしは、今もなお台湾の「国語」が日本語だったら、と思ってみる……仮にそうだとしたら、伯父が起業した会社の東京支局開設を任された父に伴って日本に渡ったわたしたち一家は、言語の異なる外国に「移住」する必要はなかった。「日本語圏内」を「移動」すればよかった……こんな想像が、まったく突飛なものなのではなく、歴史に根差した生々しさをもつことを、わたしはもちろん充分に意識している。

わたしの両親と同世代の台湾人たちが中国語を叩き込まれたように、わたしの祖父母の世代の台湾人たちは、日本語を学ばされた。だからわたしにとって日本語を書くということは、両親の「國語」とは異なる言語で書くと同時に、祖父母にとってはかつての「国語」だった言語で書くことになるのだ。

……『來福之家』の著者として、台湾の新聞記者から受けたもう一つの質問を思い出す。

──你覺得自己的歸屬在哪裡?(ご自分の居場所はどこだと感じますか?)

わたしは自分でもおどろくほど素直に言った。

──日語(日本語です)。

さらにわたしは続けた。

──我住在日語(わたしは日本語に住んでいます)。

たぶん日本語で訊かれたのなら、もう少し照れがあったかもしれない。中国語でのやりとりだったからこそ、そう言い切ることを自分に許せたように思える。改めて宣言するまでもなく、それを「母国語」と呼ぼうと呼ぶまいと、わたしが自分の思考の杖として最も頼りにしている言語は、日本語なのだ。「母国語」に限りなく近いけれど、生まれたときからわたしのものではなかった言語。

日本語とそのような関係を結ぶ自分が、台湾人である、という「偶然」は、近頃ますます、「必然」めいてくる。台湾の歴史の中に日本語という言語が縫い込まれている、という事実は、台湾人でありながら日本語で書く自分を認識すればするほど、わたしの中で重みを増してくる。

わたしが生まれた国は、半世紀に及ぶ日本統治期の歴史がある。

日清戦争を経て台湾を「領有」した日本は、植民地経営のために台湾総督府を設けた。これ以降、亜熱帯の島・台湾は、「内地」こと日本本土に対する米・砂糖など農産物の「供給地」、及び工業製品の「市場」となる。台湾は、大日本帝国の版図に組み込まれたのだ。

「言語教育は常に日本の植民地文化政策の中心にあった」

『大日本帝国のクレオール──〈植民地期台湾の日本語文学〉』(慶應義塾大学出版会)という本の一節だ。

日本に「帰国」すると、わたしは書棚からその本を引っ張り出した。

「帝国」が強いる「国語」と、「植民地」の「母語」。

巧みに使いこなすことで社会的な権力を獲得する道が拓けるのは、明らかに前者の言語である。逆に言えば、それを習得しない限り、みずからの「コトバ」を発する機会は半永久的に奪われ続けてしまう。

こうした非対称的な二重──場合によっては三重、四重──の言語状況に陥ることになったのが、植民地下にある「母国」を生きる作家たちだ。

当時の台湾では、のちに台湾語と呼ばれることとなる閩南語や、客家語などを「母語」とする人々の多くが、帝国の言語である日本語で小説を執筆していた。

──我住在日語(わたしは日本語に住んでいます)。

かつて、余儀なくそこに住まわされていた人々のことを思って、わたしはにわかに落ち着かなくなる。あなたの居場所はどこだと思いますか? と問われて、中国語で日本語ですと答えるわたしを、日本統治期の台湾で日本語で表現せざるを得なかった作家たちは、呑気なものだねと呆れるだろうか?

……以前からきちんと知らなければと心の片隅でいつも思っていたが、「母国」での自著の翻訳出版を経て、「母国」の文学史と向きあいたい気持ちが一挙に高まった。清朝、日本、国民党と目まぐるしく「統治者」の入れ替わった台湾では、どのような文学が書かれ、読まれてきたのだろうか。

(『台湾生まれ 日本語育ち』より抜粋)

書籍データ

台湾生まれ 日本語育ち 表紙
概要豊かな日本語の海へ! 3歳の時に東京に移住した台湾人作家が、台湾語・中国語・日本語の3つの母語の狭間で揺れ、惑いながら、自身のルーツを探った感動の軌跡。日本エッセイスト・クラブ賞受賞作に、刊行後の出来事について綴った3篇を加えた、待望の増補版。
タイトル台湾生まれ 日本語育ち
著者名温又柔
出版社白水社
刊行日2018年9月14日
判型新書版
頁数320頁
定価本体価格1400円+税
ISBN978-4560721339