四苦八苦の哲学 背表紙
こころの知恵

ハイデガー『存在と時間』に頻出の常套句「つねにすでに」について考える

「生老病死」の「生」について考えた先に、ハイデガーの存在論につきあたった。「生まれる」とは、「ない」が「ある」に変わること。存在することの意味をハイデガーの常套句をカギに考える。

ハイデガー『存在と時間』はプラトンの『ソフィスト』からのギリシア語による引用からはじまる(以下、『存在と時間』からの引用は熊野純彦訳、岩波文庫版から)。

というのも、「存在する」という表現をつかう場合、じぶんたちがそもそもなにを意味しているのか、きみたちのほうがやはり、ずっとまえからよく知っているのはあきらかだからだ。私たちの側はどうかといえば、以前にはそれでも理解していると信じていたにもかかわらず、いまでは困惑してしまっている。((一)67頁)

「存在する」とはどういうことなのか。存在の意味への問いをあらためて設定することが必要なのだ、とハイデガーはいう。存在と「いっさいの存在了解一般を可能にする地平として時間を解釈することが、その当座の目標となるのである」と。「時間」には傍点が振られている。

「存在する」、ドイツ語のsein は、英語のis である。ハムレットのto be,or not to be のbeだ。to be は「存在すること」。『存在と時間』を読んでいると、「そのつどすでに」と「つねにすでに」という副詞句が頻繁に出てくるのが気になる。「そのつどすでに」はje schon、「つねにすでに」はimmerschon。

たとえば、

私たちはそのつどすでに或る存在了解のなかで生き、しかも同時に、存在の意味は暗がりのうちに蔽(おお)われている。((一)80頁)

存在の意味が、だから私たちにとって、すでになんらかの様式で手の届くものとなっていなければならない。さきに暗示されたのは、私たちがつねにすでになんらかの存在了解のうちで動いていることである。この存在了解から存在の意味への明示的な問いが生まれ、存在の概念へと向かう傾向が育まれる。((一)85頁)

というふうに。

「つねにすでに」について熊野は注解で「事後的に気づいたときには、いつでもあらかじめ、というほどの意味で、事柄の先行性と受動性を表現している」と述べている。schon は「既に、(それ)だけでもう、(そうでなくても)もう、おくれぬうちに、きっと」など。immer は「つねに、絶えず、いつ(の場合でも)」。je は「いつ(の時)でも、どっちみち、以前に、かつて、〜ごとに」。

存在は、気づいたときはすでにもう「ある」。だが意識されないときは「ない」。わたしたちはふだん健康でいるとき、じぶんの身体やじぶん自身の存在を意識しない。意識するのは何かあったときで、その「何か」はたいていあまりよくないことだ。怪我をしたとき、病気になったとき、ひどく疲れたときに身体を感じる。あるいは他者の肉体と触れあうとき──これは必ずしもよくないこととは限らない。

「つねにすでに」や「そのつどすでに」には時間が含まれる。意識されたときに初めてのこととして知覚されるのではなく、すでにあったことに気づく。同じ事態がじぶんのなかで反復される。事柄が先行しているのは、じぶんの意識のなかにおいてである。「わたしの手には指があった」と意識するのはこれが初めてではない。生まれてから何度もじぶんの手を見て意識してきた。だがふだんは手のことなんて忘れている。

茶の湯を例に考えてみよう。茶の湯では点前の動作が細かく決まっている。手順だけでなく、茶碗を持つときの手のかたち、茶碗のどこを持つか、持った茶碗の位置など。たとえば指は開かずに閉じる。持った茶碗の高さは、低すぎても高すぎてもいけない。点てた茶を亭主が客に出す位置、飲み終えた茶碗を客が亭主に返す位置も決まっている。手を意識しているうちは、まだ作法が身についていない。稽古を重ねるうちに、点前の手順だけでなく、手のかたちや位置について、意識せずとも自然と動くようになる。しかしそれで終わりではない。手を意識しなくなると、いつのまにか動きが作法からはずれてしまっている。指が開いていたり、持った茶碗の位置が下がっていたりする。稽古では師匠から細かく指摘される。独習する場合は、じぶんで意識するようにする。稽古を繰り返すうちに、やがて意識しなくても作法通りの動きができるようになる──はずだが、わたしはまだまだできない。

あるいは自動車の運転を例に考えてみる。教習所で運転を習い始めたときは、全身がこわばり、動きがぎくしゃくしていたはずだ。ハンドルを握る手に力が入り、アクセルやブレーキのペダルも急に踏みすぎる。いちいち頭の中で次の動作を確認しなければ身体が動かない。「クラッチペダルを踏んで、ギアをファーストに入れて、アクセルペダルを少しだけ踏んで……」というふうに。運転者がぎくしゃくしていると、自動車の動きもぎくしゃくする。免許を取っても初心者のうちはぎくしゃくしている。ところが、やがて慣れるにしたがってスムーズになる。動きがスムーズになったときは、もうハンドルを握る手やアクセルペダルのことを意識していない。「右に曲がりたいのでハンドルを右に回そう」とか、「ハンドルを右回転させれば車も右に曲がる」とか「ハンドルを右に回転させて、タイヤの向きを変え、車を右に曲げよう」などといちいち考えない。「右に曲がろう」と思うと、右ウィンカーを出しながらアクセルペダルから足を離してブレーキペダルをゆっくりと踏み、対向車や横断する歩行者がいないことを確認し、じゅうぶん減速したあとブレーキペダルからアクセルペダルに足を戻してハンドルを右に回す。これら一連の行為を意識せずにやる。しかし、何かの瞬間に、たとえば対向車線をオートバイが近づいてくるのが見えたり(オートバイは距離感がつかみにくいので要注意だ)、反対側の歩道を子供が駆けてくるのが見えたりすると(子供は思わぬ動きをするので要注意だ)、ブレーキペダルを踏んだ足をいまいちど意識したりもする。「そのときすでに」あるいは「つねにすでに」、身体と運動が意識され、時間の経過(はるか遠くに見えていたオートバイが、かなり近くにまで見えている、など)が意識される。

そのつど意識すること、そして、意識することによって生じる時間(という観念)が、存在を存在たらしめている。自己を意識するその瞬間、わたしたちは(そのつど)生まれる。ブッダの「生(しょう)」は、そのように解釈できないだろうか。

(『四苦八苦の哲学』より抜粋)

書籍データ

四苦八苦の哲学 表紙
概要人生は思いのままにならないことばかり。世の中は苦に満ちている。あーあ、いやんなっちゃった、どうしよう……こうした気持ちと、人はどう折り合いをつけていったらいいのだろう? プラトン、ハイデガーから、フーコー、ボーヴォワール、レヴィナス、バタイユまで、さまざまな哲学者たちのことばを補助線にしながら、仏教で言うところの「四苦八苦」について考える、哲学の自習帖。まず手始めは「生老病死」の四つの苦から。
タイトル四苦八苦の哲学
サブタイトル生老病死を考える
著者名永江朗
出版社晶文社
刊行日2018年9月21日
判型四六判並製
頁数292頁
定価本体価格1700円+税
ISBN978-4794970558