吉本隆明全集17 背表紙
社会の知恵

歴史はなぜいつでも「理念の失敗」のようにして現れるのか

歴史の展開とはニーチェの言うように偶然の産物なのか、それとも必然に裏打ちされたものなのか。無数の偶然の積み重なりが必然に転化する境界を見極めることができれば、マルクスの思想・歴史的予言は現在でも有効性を持つ。吉本隆明とミシェル・フーコーとの歴史的対談の記録から。

吉本 はじめのところでフーコーさんは、マルクスが歴史的にあるいは古典的にすでに在ってしまった存在であるということで、マルクス自身の思想とマルクス主義とは、分けてかんがえなければいけないという意見を述べられました。ぼく自身もおなじようにマルクス者というものとマルクス主義者とは違うんだと書いてきました。そのことを分けてきましたから、その点についてまったく同感で、異論がありません。たいへんよくわかる考え方だとおもいます。

ところで、マルクスの予言的ないい方がありますが、その予言的ないい方は、階級がやがて消滅するだろう、それから国家ももちろん消滅するだろうといういい方に要約することができましょう。その場合、現在じっさいにマルクス主義を哲学とすると称している国家が現に存在します。ヨーロッパにも中国にもソヴィエト・ロシアにも存在します。これらの国家が少しも哲学国家の形態を解こうとしないし、解かないことの上に一つの権力を行使してる。それらがフーコーさんのいわれた言葉を使っていえば、現在の政治的イマジネーションをきわめて貧困にしているという事実があります。そのことに関連してですが、なおこれを異なった観点から、それだからマルクス主義は始末できるものなんだというのではなくて、弁護的、護教的に言い得るとすればこういういい方になります。やがて国家は消滅するだろう、階級も消滅するだろう。しかし過渡的な形態のままに現在消滅せずして存在している。それで消滅せずして存在しているという事態は、ほんとうは過渡的な問題にすぎないし、また過渡的な形態としては承認できるのではないかとかんがえることができます。ただ承認できるということと、過渡的な形態にすぎない国家を実体化し、そしてその上に停頓し、あぐらをかいて権力の一形態となっている、そういう権力のあり方自体は承認できない。世界の社会主義国家は、現在すべてそのように視えますし、かえって固定化しているように視えます。しかし過渡的な形態として現に存在する国家哲学、あるいは哲学国家というものと、その哲学自体を原理的に否定することは異なるのではないかとぼくにはおもわれます。

哲学が理念的に過渡的な国家を実現してあることと、それから現に国家を支配している哲学が、権力の一形態にすぎなくなっており、それを自己合理化もしているそのあり方を否定することとは、分けられるのではないか、とかんがえてきています。さらにその問題の上に立って、フーコーさんが包括的にいわれたことは、正しいマルクスの理解はどうなんだという問い自体がすでに現在の政治的イマジネーションを貧困にすることに加担していて、もうとうに終った問題ではないか、つまり全部片がついてしまった問題ではないかということだとおもいます。そこは異論があるので、ついていけないようにおもいます。つまり、そこはどうしても原理的なものと現実的なマルクス主義国家における権力のありようとは、分けてかんがえなければいけないし、別なのではないか。国家哲学、あるいは哲学国家の上に、マルクス主義が権力を築いてしまっているから問題なんだということよりも、むしろ理念の問題が先にやってきます。たぶん諸個人の意志と実行の現われの総和が、必ずしも歴史のなかでは、社会の動向をきめていくように表われてこない。あたかも歴史は、いつでも偶然のように、または理念の失敗のように出てくるのはなぜか。歴史が諸個人の意志とは何ら関係のないように出てくるという問題は、マルクス主義よりももっと先まで詰められるべき余地ある問題のようにおもえるのです。そこで諸個人の意志の総和のなかには、ヘーゲル的な言い方をすれば、道徳も実践的な倫理も入ってきます。その問題を全部捨象してただ全体の意志、階級的な意志というところに集約してもっていったところに、哲学の不適応の問題が生じているんじゃないか。権力に坐している諸個人の意志の総和と、全体の権力として出てくる意志とが、まったく別なものとして出てきてしまっているところに問題があるんじゃないか。それは原則として詰めていけば、もう少し詰められるんじゃないか。もう少しぼくの考えで申しますと、歴史の展開は偶然にしか左右されないという考え方には疑問の余地があるようにおもうのです。

それはどういうことかといいますと、偶然というものが無数に積み重なり組み上げられて必然が出てきているということであるし、また偶然という要素は必ずそのなかに必然という要素が見出されるとしますと、歴史はその偶然に支配されるか、あるいは必然に支配されるかというような問題に対しては偶然の積み重なりがどこかでその必然に転化していくその境界と範囲が確定されるならば、まだまだフーコーさんのおっしゃるように政治を貧困にするものとして始末してしまわなくて、マルクスの思想及び歴史的な予言は生きさせることができるんじゃないかとぼくはかんがえます。

ですから、たとえばニーチェが歴史は偶然にしか左右されない、必然もなければ原因と結果の連鎖もない、つまり、因果性もないというようにきめつけている問題はぼくには、そう簡単に受けいれられないところがあります。ニーチェは偶然と必然との関連の詰めがまだ粗雑だった。そこは直感に支配された。あるいはむしろ感性的な問題に支配されていたんじゃないかとおもわれます。そこの問題はもう少し詰めていくということで、まだマルクスの思想は、生きた現実の政治のモデルたり得るとかんがえているのです。

(『吉本隆明全集17』「世界認識の方法」より抜粋)

(『吉本隆明全集17』より抜粋)

書籍データ

吉本隆明全集17 表紙
概要批評の現在を告知する「批評について」を序にすえた作家論集『悲劇の解読』とミシェル・フーコーとの対談を核に編まれた『世界認識の方法』をはじめ、1976年から1980年の間に書かれた評論、エッセイ、詩などを収録。フーコーとの対談終了後、ふたりの間には往復書簡の企画が持ち上がり、そのまま未発表となったフーコー宛の往診書簡を初めて収録する。月報は、北川透氏 竹田青嗣氏 ハルノ宵子氏が執筆。
タイトル吉本隆明全集17
サブタイトル1976-1980
著者名吉本隆明
出版社晶文社
刊行日2018年9月26日
判型A5判変型
頁数648頁
定価本体価格6700円+税
ISBN978-4794971173