イスラーム宗教警察 背表紙
社会の知恵

イスラームを本当に理解するために

「息苦しく厳格な宗教が支配する、前時代的な差別や暴力が蔓延した社会」というイメージのあるイスラーム社会。それは本当なのか、違うのか。そう問う前に、まず、考えてみたいこと。

毎日五回の礼拝を行う、一年に一か月間の断食を行う、お酒を飲まない、豚肉を食べない、賭け事は禁止、女性は髪や肌を隠す、親族以外の異性とみだりに接触しない……。これらはイスラームについて語られる際にのぼる、定番の話題である。イスラームに関心がない人でも、こうした生活規範については知っているのではないだろうか。そしてこう思うはずである。「イスラームとはなんと戒律の厳しい宗教なのだろうか」と。

あらゆる社会にはその文化や自然環境、歴史を反映した、支配的な考え方やルールが存在し、その違いでもって単純に「厳しい社会」「厳しくない社会」といった判断や比較ができるわけではない。現実のムスリムの大らかさやホスピタリティを体験した人であれば、むしろ日本社会の方がマナーや格式にこだわる息苦しい社会だと感じることも多いはずである。

ただし、日本社会の「息苦しさ」とイスラーム社会の「厳しさ」を決定的に分けるのは、イスラーム社会ではその風紀を乱した人に対して宗教にもとづいた罰が用意されている点である。

日本のメディアでも時折、イスラーム社会における鞭打ちや身体の一部の切断、石打ちといった刑罰の執行が報じられる。とくに石打ちは、ショッキングなその方法に加え、報じられる受刑者の多くが女性であることから、ニュースを見聞きした人は、イスラーム社会が「厳しい」を通り越して、前時代的な差別や暴力が蔓延した社会なのだという印象を受けるだろう。

しかしながら、こうした身体刑が世界中のすべてのイスラーム社会で適用されているわけではない。むしろ世界全体で見れば、ムスリムが圧倒的多数を占める地域であっても、イスラームにもとづく身体刑が司法制度に適用されている国、また自警団が取り締まりを行っている地域はまれである。これに該当しない大多数のイスラーム社会の人々は、イスラームにもとづいた社会形成を望ましいこととする一方、異なる文明から異なる考え方や習慣が入り込むことをある程度当然としてきた。その上で、現状において実現可能な望ましい社会のあり方、つまり相対的理想にもとづいた社会作りを支持するのが大多数の立場である。

実際、ムスリムの間には石打ちや鞭打ちといった身体刑に嫌悪感を示す人も多い。彼らは身体刑などの罰をなにがなんでも適用しようとする、現状を破壊してでも自分たちが最善と見なす社会の形成を求める絶対的理想の考えについて、本来の寛容なイスラームの姿とは異なるものだと主張する。

こうした甲斐あってというべきか、近年の日本では、イスラームを掲げる過激主義勢力がメディアを賑わす一方で、「暴力を肯定するムスリムは全体から見ればごくわずかなのだ」、「イスラームは(本当は)暴力を否定する宗教なのだ」という認識も見られる。そしてこの認識にもとづいて、日本のメディアではしばしば「一般のムスリム」や「普通のムスリム」という表現が用いられ始めた。ここでいう「一般」「普通」という表現には、たとえば暴力行為を平然と行う「テロリスト」とは異なる、善悪についての考えを日本人の大多数と共有できる人々、あるいは妥協ができる、物分かりの良い人々といった含意がある。

しかしながら、たとえ善悪についての考えを日本人の大多数と共有できるからといって、「一般のムスリム」「普通のムスリム」がイスラームの価値観や道徳観を反映した社会作りを目指す意志を否定するとは限らない。相対的理想であれ絶対的理想であれ、現実世界において宗教の教えにのっとった社会のあり方を求めることを信徒としての重要な義務だと考える人々は決して少なくない。

この点、非ムスリムが「物分かりの良い」ムスリムだけを相手にして、自分はイスラーム社会の実態やムスリムの考えを理解したのだと判断することには慎重でなければならない。もちろんこれは、「物分かりの良い」のは表面的なふりなのだからムスリムを警戒すべきだという意味ではない。そうではなく、イスラーム社会やムスリムを理解しようとする上で、価値観や考え方を共有できない部分については「本来のイスラームではない」と切り捨て、同意できるものだけを「本来のイスラーム」と見なし、安易に理解者を自負するのは、かえってイスラームの理解から遠ざかってしまうということである。

もっともこれは、非ムスリムの側だけの問題ではない。ムスリムの間にも、非ムスリムに同意されないと思われる部分は「イスラームについての誤解を生む」と判断し、「本来のイスラームではない」として説明する人が少なくない。「イスラーム」と見なしたいものだけを受信する、「イスラーム」と見なしてほしいものだけを発信するという、非ムスリムとムスリムの双方の思惑が一致しているというのがおそらくは現状であろう。この状況を見れば、日本におけるイスラームについての理解は、依然として狭いといえるかもしれない。物知り顔で、「イスラームは(本当は)暴力を否定する宗教なのだ」と訴えることと、「イスラームは暴力を肯定する宗教なのだ」と訴えることは、ひょっとすると理解の単純さという点ではあまり変わりないのではないだろうか。

イスラーム社会における風紀取り締まりを筆者が『イスラーム宗教警察』で取り上げた背景には、まさに以上のような問題意識がある。髪を覆っていない女性が暴力を受けた、お酒を飲んだ人が鞭打ちにあった、不倫をした人が石打ち刑を受けた……。イスラーム社会から届くこうしたニュースは、多くの場合、単発的にしか報じられない。その結果、イスラーム社会は前時代的な価値観や暴力的な刑罰が蔓延した危険な場所なのだという印象を我々に植えつける。取り締まりやこれらの刑罰が見られる場所は現実にはまれなのだが、世界中のイスラーム社会で同様の出来事が起こっていると誤解している人も少なくない。

一方、こうしたネガティブな印象を正そうとする声として、取り締まりや刑罰を本来のイスラームから逸れた行為だと訴える声も聞かれる。しかしこれでは、どのような意図と経緯でイスラーム社会に固有の風紀の通念と、これを犯した人に対する罰が現実に成立したのか、また一部の地域とはいえなぜそれが適用されているのかといった点から目を背けることになる。

もちろんこれらの報道から、女性は髪を覆わなければならない、お酒を飲んではいけない、不倫をしてはいけないといったイスラーム社会の生活規範を知ることはできるだろう。しかし、こうしたルールを個別に取り上げるだけでは、イスラーム社会を訪問・滞在する際の注意点としては役に立っても、そこで暮らす人々の考えや宗教と社会の関係について洞察することにつながるかどうかは疑問である。七世紀初頭に興り、一四世紀以上にわたって世界中に広がったイスラームという文明を、女性が髪を隠す宗教、お酒を禁じる宗教といった断片的情報で片づけてしまうのはあまりに底が浅いといえないだろうか。

(『イスラーム宗教警察』より抜粋)

書籍データ

イスラーム宗教警察 表紙
概要イスラーム社会の正義とは何か。ワッハーブ主義を国是とし、宗教警察の取り締まりによって「正しいイスラーム社会」を形成する一方で、近代化にゆれるサウジアラビア。カリフ制再興のもとに宗教的社会をつくり出そうと、宗教警察により厳格な統治を行った「イスラーム国」。スマトラ島沖大地震を神からの警告として捉え、イスラームの規範に則った社会形成を加速させたインドネシアのアチェ州。三つの国と地域の宗教警察を明らかにする初の書。
タイトルイスラーム宗教警察
著者名高尾賢一郎
出版社亜紀書房
刊行日2018年9月22日
判型四六判
頁数288頁
定価本体価格2500円+税
ISBN978-4750515618