東京骨灰紀行 背表紙
社会の知恵

築地市場を歩く──「つくづく築地」より

移転で話題の築地市場。そもそも、この土地にはどんな記憶があったのでしょうか。朝日新聞「ゼロ年代の50冊」にも選ばれた紀行文『東京骨灰紀行』収録「つくづく築地」より、築地市場の部分を公開致します。築地本願寺を訪問後に著者は、築地場外市場に向かいます。

本願寺南門をでて、晴海通りへ。通りのかなたは、築地場外市場です。

海産物を中心に、各種仲卸の小商店がひしめく町。食肉・青果・海苔・茶・玉子焼・刃物・厨房道具・包装用品・看板屋・電器屋等々が、ひところはざっと四百軒。早朝がもっとも雑踏して、日中は閑古鳥が鳴く。東京一早起きの町とうたわれたが、近年はだいぶ様相がちがう。寿司や海鮮丼の名物店がつぎつぎにできて、日中も若者たちが行列つくっています。そのぶん店が大型化するいっぽう、軒下三寸借りた小店も依然としてある。南北に三本の道が通って、四区画。単純な構造だが、ビルとバラックと細い路地が組みあわさって、なにやら奥が深そうな町です。

まずは通りをへだてて遠望すれば、三本道のまんなかの一本が、まっすぐに見通せる。あの突きあたりに、そのむかしは本願寺の正門があったのでした。例の「京橋南・築地・鉄炮洲絵図」をみれば、晴海通りはそっくり境内で、ここらあたりに中門がある。「中門の外、過半の地を三條に区画し、これに末寺五十八箇寺を置き」という姿だった。明治もかわらず。それが大正震災と、昭和の敗戦とで、ガラガラと変わった。いまは晴海通り沿いに衝立のようにビルがならび、十階建ての壁に尾頭つきの巨大な鯛が描かれて、ナマグサの町だぞと誇示している。そもそもは殺生禁断のお寺さんの境内なのにねぇ。

しかし、三條の区画は、変わりません。じつは子院ものこっている。晴海通りのてまえに二坊、場外市場のなかに三坊。墓地さえある。ほんと。では、横断歩道をわたります。

三筋の道のまんなかの道を入ってすぐの左側に、唐破風の玄関の日本家屋がある。みあげる大きさがちょうどお風呂屋ほどなので、まままちがえられるというが、これぞ圓正寺。明暦大火後に、西本願寺別院とともにご当地へきた子院の一つです。

大正震災後に、子院五十八坊の焼け跡は、たいらに均して、新開の商店街へ変身する。そのなかにのこった子院も数坊はあった。市外へ移転した子院たちはそれなりの地所を得たのに、だんこ居すわり組が寺域をけずられたのはやむをえなかった。そのごの変遷のなかで、先年も失火によって一坊が消えた。いまはまんなかの道のさきに称揚寺、一本左の道に妙泉寺が健在でいるが、ビル化していて、つい気づかずに通りすぎる人も多いだろう。墓地は、一本右の道にある。モルタル塀の中にぎっしり墓塔がならんで、圓正寺の離れ墓所でした。

圓正寺だけがお風呂屋的に唯一和風だ。せばめられた地所へ、本堂と庫裡を合体させた総二階を昭和6年(1931)に落慶した。屋根は銅板葺き、外壁もなかば銅板張りと、いかにも震災復興期の建物です。大玄関からすぐの本堂が、二階へ吹き抜けで、棟梁の苦心の作であろう。十余年前にたまたま取材で拝観した。そのおり第十四世住職からうかがったことどもをまじえての、以下はご当地いまむかしです。

新開のこの町は、日本橋からきた魚河岸の中央卸売市場に、堀ひとつへだてていちばん近い町だった。原住民の寺々と、入植民の店々とは、じきになじんだ。夏は戸毎に縁台ならべて夕涼みの「いい町でしたよ」と語る住職は築地小学校の卒業生。そうだったよなあ。わたしはおなじ京橋区の泰明小学校の卒業です。

空襲には、本願寺ともども、この町は無傷だった。戦後、アメリカ軍が中央卸売市場の一部を接収して、駐留将兵とその家族たちの胃袋を賄うことにした。そのため追いだされた業者たちが、堀をまたいでこの町へあふれてきた。のちに接収解除にはなったけれども、もどらない。こっちのほうが規制にしばられないぶん自由に稼げた。築地場外市場の成立。

というわけで、一気になまぐさい町になったのは、アメリカ占領軍の置き土産でした。もはや抹香臭い土地柄とは絶縁した。とおもいきや、そうは問屋がおろさなかった。

高度経済成長期、この町のビル化が競ってすすんだ。いざ地下を掘ると、当たりはずれが生じた。なにごともないところと、ざくざくお骨がでるところと。子院の引っ越しは、つまり位牌の墓石を運んだので、土葬時代の地下は、大地に抱かれて自然に帰しているのであった。ところがビルは地下室を造るからね。造らぬまでも掘り固めるからね。そこが墓所跡ならば大当たり。なにしろ築地で、もともとは海につき、水気に漬かって空気に触れず、保存きわめて良好のお棺もでた。蓋をあけると妙齢の美女が振袖のまま眠っていて、ものに動じぬ仕事師もギャッと叫んで遁走したとか。聞きつけてドッとむらがったとか。多少は尾鰭のついた実話が、この町のどこかでいまも語り継がれているはずです。現代の民話。

この町の握り鮨や海鮮丼が、とりわけ旨くて安いのは、こういう伝承と無縁ではない。徳川幕府は、江戸の中心に市場をひらいた。おかげで日本橋は土地柄までが美味しくなった。余徳はいまなおあのあたりにただよっているでしょう。築地へ移ったのは海運の発達からも当然で、大型船が日本橋川には入れない。築地は荷揚げの岸壁からすぐに競り場がある。そこから仲卸、小売と渡って、東京中へ散ってゆく。そのむんむんとした人間臭さと抹香臭さの隠し味のおかげで、この界隈は、ずうっと銀座のほうまで、つくづく美味しいのだ。

この中央卸売市場を、はるか豊洲の東京ガス工場跡地へ強制移転させる計画が、都庁のほうで進行している。陸上交通全盛のこんにち広大な埋立地のほうが合理的だぞと机上プランでいえばいえるが。あたりに町場もなく、掘れば環境基準の4万3000倍のベンゼンなどしかでてこない地へ移して、都民の台所へ、どんな味をもたらす気やら。ひとときのオリンピックの情報センター設置案のたぐいと、どうひきかえになろうものか。

築地四丁目の辻のアーケードに、スローガンがかかげてありました。「場外市場は、移転しません。私たちは、ずーっと、築地で頑張ります」

(『東京骨灰紀行』より抜粋)

書籍データ

東京骨灰紀行 表紙
概要アスファルトの下に累々と埋もれる、江戸・東京の骨灰。明暦の大火このかた、震災と大空襲の犠牲者までをまとめてご供養の両国から、小伝馬町の牢屋敷跡、小塚原の仕置場跡、地下鉄サリン事件の築地、お骨の大量入居地、谷中墓地に多磨霊園……。無数の骨灰たちの彼方に、この国の首都の来し方、忘れ去ってきたものが見えてくる。東京の記憶を掘り起こす鎮魂行。
タイトル東京骨灰紀行
著者名小沢信男
出版社筑摩書房
刊行日2012年10月1日
判型文庫判
頁数305頁
定価本体価格780円+税
ISBN978-4480429896