異教の隣人 背表紙
こころの知恵

これからのコミュニティーで宗教が果たす役割

東日本大震災で、地域コミュニティーの大切さを痛感した私たち。「結びつける」「つなげる」を本質とする宗教の力が、過酷な状況でも人に生きる力をあたえる。日本に住む外国人たちにとっても、さまざまな宗教儀礼は生きるうえでの原動力にもなっている。

●2つの時間軸、「クロノス」と「カイロス」

神学者であり哲学者であるパウル・ティリッヒは、時間を「クロノス」と「カイロス」に分けて考察しています。両方ともギリシャ神話に出てくる神の名前です。ティリッヒの分類で言えば、クロノスは物理的・客観的な時間のことであり、カイロスは主観的・体験的な時間を指します。それを援用して、宗教的時間について考えてみましょう。

現代人はかなりクロノスを有効活用しています。かつては数日かかった移動距離を、数十分で到達することができます。以前は何時間も必要だった計算を、瞬間で終わらせることもできるようになりました。日が暮れたらもう仕事ができなかった時代に比べれば、かなり一日を長く使うことができます。2時間も3時間も必要だった食事やお風呂の準備も、それほど手間をかけずに実行できます。ですから、現代人はひと昔前よりもずっと時間があまってしかるべきなんですよね。でも、あきらかに現代人の方が忙しくなっている。時間に余裕がない。あらためて考えてみれば、おかしな話ではありませんか。これは主観的な時間であるカイロスが委縮しているからだと思います。いくら物理的な時間のクロノスの余剰があっても、カイロスが縮めば忙しくてイライラして、しんどくなってしまうのです。

我々のカイロスの時間が委縮しているのは、委縮するような装置が増加する一方だからでしょう。短時間で対応したり解答したりするのが、より良いモデルとなっている社会ですから。瞬時にして広範囲に情報が行き渡り、それを常にキャッチアップしていかねばならない状況なのです。私たちは、この点をよく自覚して、時間を延ばす装置や技法に眼を向けねばならない時期を迎えています。どうすればカイロスを延ばすことができるか、それは現代人の大きなテーマなのです。

実は、人類にとって最も良く「カイロスの時間を延ばす装置」は宗教儀礼です。宗教儀礼の歴史は、ほぼ現生人類としての歴史と重なります。人類ははるか古代から宗教儀礼を営んできました。宗教儀礼の場を創造することによって、人類は共同体を維持し、大きな存在に思いをはせ、個人を超える感性を育ててきたのです。私たちも、宗教儀礼の時間に心身を添わせることによって、委縮しがちなカイロスを少しだけ延ばせるに違いありません。そして、延びた時間の中で暮らすことで、向き合わざるを得ないさまざまな困難や苦難を引き受ける耐性が上がるのです。委縮した時間の中にいると、ささいなことでも辛抱できなくなってしまいます。

日本で暮らす異教の隣人たちは、宗教儀礼の時空間に身をおくことで、暮らしの中の不合理な事態を引き受けているように見えます。だからこそ、多くの面倒な手続きや義務があっても、教会や寺院を運営しているのでしょう。

●つながっているから生きていける

東日本大震災の際、私たちは地域コミュニティーがいかに大切であるかを痛感しました。ちょうど「無縁社会」などといった言葉が流布し始め、小さなコミュニティーを再構築しようとする動きが注目されている最中でした。もともと、日本の地域コミュニティーは「お寺」や「神社」を核として構築されてきました。でも、そのカタチは都市部を中心に大きく変化しています。これからどんなモデルに可能性があるのか。それに宗教がどんな役割を果たすのか、そのあたりは私自身とても関心をもっています。

なにしろお寺の住職は心から地域コミュニティーを守りたいと思っていますからね。ヘタすると地域の誰よりも、行政の誰よりも、地域コミュニティーの存続を願っているかもしれません。だって、引っ越しできないんですから。

たとえば、お寺を中心としたコミュニティーを考えてみても、ずいぶん事情が違います。地域性や習俗などの相違もあります。私が住職をしている如来寺は「ムラ」という形態が色濃く残った農村型です。ご近所はほとんどが檀家さんです。

一方の都市型はどうか。ムラ型コミュニティーは良いところも多いのですが、煩わしさもあります。そういったムラ型コミュニティーの濃密な関係性が嫌で都市部へと移動した人も少なくないでしょう。なによりムラでは就職できる仕事が限られています。都市では地域コミュニティーの煩わしさを避けることができ、仕事もあります。でも、あまりに関係性が希薄になってくると、それはそれで具合が悪くなる……。そこで今度は都市型の小さなコミュニティーを生み出さねばならないわけです。だから、都市のお寺を拠点にしたコミュニティーを観察してみると、ムラ型とは異なるつながりを確認することができます。

いずれにしても、私の関心は「宗教性があるコミュニティー」「儀礼性の高い集いの場」です。ここが人間にとって最も重要なポイントだと考えているからです。なにしろ、「結びつける」「つなげる」は宗教の本質のひとつです。宗教は、神と人、人と人、個人と共同体を結びつけることに高い能力をもっているのです。

私たちは、「何ものにもつながっていない」と感じる事態に追い込まれると、生きていくのはとても過酷になります。逆に言えば、かなり過酷な状況におかれても、「つながっている」と実感できれば、何とか生き抜ける時もあるということです。

ブラジル教会を尋ねた際も、このことを考えさせられました。

日本で暮らすブラジル出身者は多く、その大半が製造業に従事しています。その人たちが力を合わせて教会を立ち上げたのです。日本生まれのブラジル教会です。

日曜日の礼拝では、牧師さんが音楽にのって、「兄弟たちよ、姉妹たちよ、君はひとりじゃない。ひとりで泣いてはいけない。共に泣こう」と語りかけます。牧師さんの説教に、その場にいる人たちは身体を震わせ、心をシンクロさせて祈っていました。この場に来れば、自国の言葉で説教を聞くことができます。自国の歌を歌えます。自国の料理を、みんなで一緒に食べるのです(共食行為はきわめて宗教的な営みであり、コミュニティー維持の重要要素です)。その一体感たるや、大変なものでした。日曜日に集い、つながりを確認して、また月曜日から日本社会で精勤するのです。

●「信じる」「感じる」「行う」

ところで、宗教といえば、「信じる」という前提なしには成り立たないと思われがちですが、そんなことはありません。「信じる」以外に、「感じる」といった宗教性もあります。たとえば、祭りや地鎮祭、葬儀や法要などは、きちんとした信仰がなければ参加できないってわけじゃありませんよね。特段の信仰がなくても、自然現象に神を感じることもあるでしょう。クリスチャンじゃなくても、教会の讃美歌に聖性を感じることもあります。その場その場で起こる、一回限りの宗教性というのもあると思います。

また、「信じる」「感じる」以外にも、「行う」という宗教性もあると思います。信仰や情念よりも、行為が先立つような宗教性です。宗教的な習慣や行為様式などが、私という存在を根源的に支えてくれることもあるのです。これがなかなか侮れません。たとえば、ユダヤ民族が1900年にもわたって自国がなくても、ユダヤ民族であり続けることができたのは、ユダヤ教のエトス(行為規範・行為様式)があったからだと言えるでしょう。ユダヤ教のエトスがある限り、彼らはどこで暮らしてもユダヤ民族であり続けることができるのです。

(『異教の隣人』より抜粋)

書籍データ

異教の隣人 表紙
概要いま私たちの社会では、多様な信仰を持つ人たちが暮らしている。でも仏教、キリスト教ならなじみはあっても、その他の宗教となるとさっぱりわからない。異国にルーツを持つ人たちは、どんな神様を信じて、どんな生活習慣で、どんなお祈りをしているのか? イスラム教、ユダヤ教、ヒンドゥー教からコプト正教まで、気鋭の宗教学者と取材班がさまざまな信仰の現場を訪ね歩いて考えたルポ。読めば「異教徒」もご近所さんに。毎日新聞大阪本社版で大好評の連載を大幅加筆のうえ単行本化。
タイトル異教の隣人
著者名釈徹宗
出版社晶文社
刊行日2018年10月26日
判型四六判並製
頁数288頁
定価本体価格1650円+税
ISBN978-794970619