会社はこれからどうなるのか 背表紙
社会の知恵

株式会社の経営の根幹を支えているのは、じつは、「倫理」である。

「特別背任」という言葉が世間を賑わわせていますが、これは、自己の利益のために会社を利用したというだけの話ではなく、実は、株式会社という組織の構造に深く関わっている根本的な問題なのです。

最近、「コーポレート・ガバナンス」という言葉を、新聞や雑誌で見かけることが多くなりました。それは、CORPORATE GOVERNANCEという英語をそのままカタカナにしたもので、「会社統治機構」とでも訳すべき言葉です。「企業統治機構」と訳されることがありますが、それでは、これから述べるような、企業の統治と会社の統治とのあいだの本質的なちがいがわからなくなってしまいます。じつは、そもそもコーポレート・ガバナンスとは何を意味するのかについて、学者のあいだでも意見が大きく分かれています。ここではとりあえず、株式会社が効率的に経営されるためには、経営者の仕事をどのようにコントロールすべきかという問題であると、簡単に定義しておきましょう。この定義は、もっとも狭いコーポレート・ガバナンスの定義であると思います。

個人企業や共同企業の場合、経営者の仕事をどのようにコントロールすべきかという問題は、本質的に単純です。なぜならば、古典的な企業においては、オーナーはみずからの意思によって経営者と委任契約を結んでいるからです。それゆえ、問題は、企業のオーナーが、アメとムチとを最適に組み合わせた契約書を作成する能力があるかどうかに帰着します。ここでいうアメとは、経営者のヤル気を引き出すために、その報酬を企業の利益と連動させたりするボーナス制度などのことです。ムチとは、経営者の仕事の精励ぶりのチェックや怠慢が見つかったときの罰則などのことです。いずれにせよ、ここでは、すべてが企業のオーナーの手腕に依存しています。一般に、契約関係とは、自己利益の追求を前提としてむすばれたものです。それがどのような結果を生もうと、それは自己の責任において処理されるべきものです。原則的には、国家が介入する余地はありません。

これにたいして、株式会社の経営者は、株主の委任を受けた代理人でなく、会社の信任を受けている信任受託者です。その仕事のコントロールは、古典的な企業の場合に比べて、はるかに複雑な仕組みを必要とするのです。

ところで、信任の関係とは、それがまさに信頼によって支えられていることから、怠慢や濫用の危険に必然的にさらされることになります。無意識の患者を手術する医者は、さぼろうと思えば、いくらでもいい加減な手術ができます。悪意をもてば、いくらでも人体実験ができます。

株式会社の経営者も同様です。なにしろ、会社それ自体は観念的な存在にすぎないのですから、経営者がさぼろうと思えば、いくらでもいい加減な経営ができます。なにしろ、経営者が経営者としておこなったすべてのことはそのまま会社がおこなったことと見なされますから、悪意をもてば、いくらでも会社を私物化できます。いや、たとえ悪意をもたなくても、同一の経営者が長く経営を続けていると、あたかも会社が自分のものであるかのような錯覚をもちはじめてしまうのは、ごく自然なことです。

それでは、このような信任受託者の怠慢や濫用は、いったいどのようにしたら防ぐことができるのでしょうか?

まず言えることは、契約によって信任受託者の仕事をコントロールすることが不可能であるということです。その理由は簡単です。信任関係の当事者のあいだでむすぶ契約は、基本的には信任受託者の「自己契約」になってしまうからです。無意識の患者を手術する医者は、その気さえあれば、いくらでも自分に都合のよい契約書を作ることができるはずです。法人としての会社がむすぶ契約はすべて経営者を通してしかむすべないわけですから、経営者の行動をコントロールするために会社と経営者がむすぶ契約は、実質的には経営者が自分自身とむすぶことになってしまいます。経営者は、もし自己利益の追求のみを考えているならば、いくらでも自分に都合のよい契約書を仕立て上げてしまいます。

自己契約は契約として無効である──これは、法律の大原則のひとつです。信任関係を契約によってコントロールする試みは、必然的に自己契約という要素をもってしまうという、本質的な矛盾をはらんでいるのです。いや、じつは、まさにそこに、契約とは異なった法律概念としての信任という概念の存在理由があるのです。それゆえ、信任関係の維持には、自己利益の追求を前提とした契約関係とはまったく異質の原理を導入せざるをえません。それは、ほかでもない、「倫理」です。

当たり前のことですが、信任を受けた人間がすべて倫理感にあふれていさえすれば、信任関係は健全に維持されます。それゆえ、歴史的には多くの専門家集団がみずからに職業倫理を課してきたのです。たとえば医者の場合、「わたしは能力と判断の限り、患者に利益すると思う養生法をとり、悪くて有害と知る方法を決してとらない」というあの有名なヒポクラテスの誓いの存在が、患者との信任関係を維持していく上で大きな役割をはたしてきたことは、よく知られています。

だが、不幸にして、人間の倫理感とは希少な資源です。それは、万人が等しく所有しているわけではありません。じじつ、倫理感の欠如した医者が、患者を人体実験に使った例は、歴史上枚挙にいとまがありません。いわんや、会社を食い物にした経営者にいたっては、数知れません。それゆえ、信任関係を維持するためには、自由放任の原則を取り払い、法律による厳格な規制が必要とされるのです。

すなわち、双方の自由な合意の結果として成立する契約関係においては、国家の介入を極力排除するのにたいし、一方から他方への一方的な倫理性を要求する信任関係においては、司法を中心とした国家の介入が不可欠であるのです。

信任に関する法律は日本ではまだ未整備で、もっぱら信任関係のひとつである信託にかんする法律を援用していますが、一般には、その中核には、信任受託者が自動的に負うことになる「信任義務」なるものが置かれています。医者は医者、弁護士は弁護士、ファンド・マネージャーはファンド・マネージャー、後見人は後見人、会社経営者は会社経営者、財団理事は財団理事として、第一に、自己の利益ではなく、信任関係の相手の利益にのみ忠実に仕事をおこなうこと、第二に、その仕事はそれぞれの立場に要求される通常の注意を払っておこなわなければならないことが義務づけられています。第一の義務は、「忠実義務」、第二の義務は、「注意義務」とよばれていますが、それぞれ信任関係にともなう濫用の危険と怠慢の可能性を排除しようというものです。そして、どちらの義務も、程度の差はあれ、信任受託者に一種の倫理性を課しているのです。信任義務には、このほかにも数多くの義務がふくまれているのですが、そのなかでももっとも中心的なのはこの二つの義務です。

ここで重要なことは、信任義務とは、たんなるお題目であるのではなく、法的な強制力をもった規定であるということです。それは、「強制法規」として、「任意法規」である契約に優先することになります。なぜならば、先ほども述べたように、信任関係を契約によって律する試みは必然的に自己契約の要素をふくんでしまうからです。それゆえ、たとえ信任義務を要求しない旨を記した患者の誓約書や会社の定款があったとしても、それは効力をもちません。ひとたび信任受託者になることを引き受けた人間が信任義務を怠ってしまうと、そのような契約や定款の存在にもかかわらず、それは違法行為として司法の手で裁かれることになるのです。有罪になれば、経営者はみずからの怠慢や濫用が会社にあたえた損害を賠償しなければなりませんし、悪質だとみなされれば、背任罪に問われて、刑務所に入れられることになるのです。

このような経営者が会社にたいして負う忠実義務と注意義務こそ、コーポレート・ガバナンスの中核です。それらは、まさに経営者が「社会の公器」としての会社のいわば生命を預かっている存在であることから生じてくる、倫理的な義務にほかならないのです。忠実義務は会社法に、注意義務は民法に規定されています。

(『会社はこれからどうなるのか』より抜粋)

書籍データ

会社はこれからどうなるのか 表紙
概要会社は株主のものでしかないという株主主権論が理論的な矛盾をはらんでいるということが、本書の基本命題です。近年起こった株主利益の最大化を唯一の行動原理としてきたアメリカの金融市場におけるバブルとその崩壊によって、はからずも現実によって実証されました。いまだに続いている全世界的なカネ余り現象も、まさにポスト産業資本主義においてはおカネの支配力が相対的に弱まっていくという、本書のもう一つの基本命題の現実化にほかなりません。これらが示しているのは、株主主権論的な会社のあり方の凋落をもたらすポスト産業資本主義の劇的な幕開けといえるでしょう。本書は、このような状況下にある「会社」について、資本、経営、雇用などを根本から洗い直し、その新しい可能性を探ります。第二回小林秀雄賞受賞作。
タイトル会社はこれからどうなるのか
著者名岩井克人
出版社平凡社
刊行日2009年9月11日
判型ライブラリー判(B6変型)
頁数376
定価本体価格950円+税
ISBN978-4582766776