私の東京地図 背表紙
社会の知恵

東京はまだ普請中──青山はどう変わったか

1930年代には〈気のおけない土地〉だった青山に、〈東京オリンピック〉という重戦車は進んだ。東京の街の変貌を目の当たりにしてきた著者による、今と昔が交錯するエッセイ。

〈青山〉ときいて、人はどのようなイメージを持つのだろうか。

おそらくは〈小じゃれた〉住宅地、表参道に近いアパレル・メーカーの多い街 ── そういう感じではないか。

── 現実にはそうだと思うが、私にとっては〈親近感の持てる〉場所である。私は日本橋の生れだが、母の実家が青山南町2丁目(今だと南青山2丁目)なので、子供のころからよく行っていた。そのころの青山は、〈気のおけない土地〉だったので、〈しゃれた〉といった形容詞とはほど遠かった。
1970年代に出た『東京地名小辞典』(三省堂)を見ると、〈青山〉は〈港区北西部の住宅地〉と一行で表現されている。
青山には幾つかの顔があるが、第2次大戦前は軍事施設が多かった。青山1丁目の交差点のすぐそばに、なんと陸軍大学校があった。軍関係の建物も多く、永井荷風は市電でここを通り抜けるだけで不愉快だと「日和下駄」に記している。

もうひとつの顔は〈死〉だ。なんといおうと、巨大な青山墓地があり、1丁目交差点前には〈石勝〉があった。子供心にも、何人もの職人が連日、カチカチと石を削るのは大変だと思っていたが、戦後もこれは続いていて、命からがら大陸から引揚げてきた森繁久彌は、東京に着いてすぐ、〈石勝〉で自分の墓石を注文した、と書いている。
青山墓地=〈石勝〉は、そのくらい有名だったのである。
ここに住むと、すぐわかることだが、青山墓地以外にも墓地が多く、寺が多い。ある寺の土地に建つアパートで暮したからよく知っているが、その寺には、これまた、なんと(!)だが、河内山宗俊の墓があった。本物かどうかはわからない。
戦後、軍事施設はいっせいに米軍に接収され、アメリカ兵の多い街になった。神宮球場は主としてアメリカ軍が使っていた。六本木の〈歩兵第1連隊〉は〈ハーディ・バラックス〉になり、地味な六本木が〈アメリカ風の街〉になる原因をなした。除隊したアメリカ人がイタリアンの店を始めたのが発端である。

空襲で焼き払われた街がようやく一息ついたときに、東京オリンピック(1964年)のための工事が始まる。
現在、〈青山通り〉と呼ばれている道の幅は、当時は現在の約半分だったと考えればいい。かなり狭いと考える人が多いと思うが、さらに都電が走っていたのだ。2輛の都電がすれちがうことを考えれば、レールが4本必要である。
当時、この道路はすでに車が渋滞していた。私は神宮前に住んでいたから、会社の往復時に工事を見たが、赤坂から渋谷まで、道幅を2倍にしようというのだから大変である。後年、道をひろげるために左右のどちらを削ったかがわかる地図を見たが、赤坂御用地なども石垣を崩して、ごっそりと削られた。
少くとも、商人、医師などを立退かせるためには莫大な補償金が必要だった。その金額は驚くべきもので、私の行きつけの家電業者など、挨拶もなしに姿を消した。こんな〈国家的事業〉は二度とできまい。

赤坂から渋谷に向っての、左右どちらかが削られたわけではない。
ある場所は右、ある場所は左、という風に削って、道を造ったのだが、まあ丹念な仕事といえば、いえなくもない。とにかく、道幅は2倍になったのである。
東京オリンピックとどういう関係があるのか、といえば、わからない。べつに説明もなかった。〈外国からのお客様に恥ずかしくないように〉というのがタテマエであった。今の人にはわからないと思うが、〈戦後19年目〉目当てということが大きい。
戦争のための苦労に等しいものを国家はしているのだ。国民は協力しなさい。
個人的には反対している人もあったろう。しかし、そうしたものを圧しつぶして、〈東京オリンピック〉という重戦車は進んだ。

青山通り(当時、この名はなかったと思う)だけではない。
1964年10月1日に東海道新幹線が走り、高速道路なるものが開業した。環状7号線道路も開通した。環状七号線道路(通称カンナナ)はバスが細々と走っていただけの道を、強引にひろげて(両側の家々を買いとって)、造ったものである。

〈東京オリンピック〉のため、といえば、協力する人がまだいたのだ。昭和15年に計画された東京オリンピックは中止された ── それ にこだわっている人がいたのかも知れない。
さて、青山通りだが、場所によって〈下駄ばきアパート〉というものができた。6、7階建てのコンクリートのアパートの一階が商店になっている。これはいまでも、道に面して、あちこちに残っている。〈ピーコック〉のような大型スーパーができた。私は家族とともに四谷左門町に住んでいたから、よくタクシーで買い物に行った。
青山はそういう街になったのである。やがて〈ブルックスブラザーズ〉もでき、少し高級な、というより中流上層的な街になった。青山通りのひとつ裏には、敷地200坪から600坪ぐらいの屋敷がまだ多かったが、電車通りぞいの店はチマチマとして〈庶民的〉であった。それがオリンピックのおかげで、一段、格が上ったのである。

これが1964、65年ごろの青山と見ていいだろう。大きなスーパーがほかにふたつほどあったから、買い物には不自由しない。しかし、男のスーツを青山で注文するのは、まだ一般的ではなかった。
お屋敷町の外側に〈一寸した商店街〉ができた ── その程度のあり方だった。

20年ぐらい前だろうか、私は青山のあるお医者さんをホーム・ドクターにしていた。
杉並区にいた私から見れば、ひどく遠いのだが、若いころ青山に住んでいたので、その当時からのかかりつけだったのである。
〈600坪〉という数を出したのは、そのお医者さんの敷地である。青山通りから1本うらに入れば、そういう生活がスタンダードだったのである。察するに、先祖からひきついだ土地であろう。
ちょうど、土地バブルのときだった。
「銀行が売ってくれと言ってきて仕方がない」
お医者さんは不機嫌そうに言う。
「売ってしまえば、税金でごっそり持っていかれてしまいますよ。それでは意味がない」

そこで、4階か5階の趣味の良いマンションを建てた。お医者さんの一家は最上階に入り、やがて医者の方は廃業した。たしかハワイと国内のどこかに別荘を持っていたはずで、快適な老年をすごせる計算はしっかりしていた。
青山というと、そういう生活と、ごくありふれた生活から成り立っていた記憶がある。“ありふれた生活”の方は田口道子著『東京青山1940』(岳陽舎)にくわしい。これは物書きではない人が、日記帖から書き直した戦前・戦後の生活だが、豊富な写真が貴重である。
時代の変化によって、たとえばボウリング場というものが入ってくる。〈ピーコック〉(今は〈大丸ピーコック〉)が入ってくる。そして、有名なケーキ屋やコーヒー店が消える。安藤鶴夫氏が〈人情紙とんかつ〉と名づけた薄いとんかつの店も消えた。
一九六四、六五年からあとは、店ができたり、消えたりの泡のような生活である。中には、山陽堂のような、〈がんばる〉書店もある。表参道の入口右側の、「週刊新潮」の表紙の壁画が目立つ山陽堂である。『東京青山1940』によれば、昔は鰻の寝床ほどの奥行きの店だったそうだが、東京オリンピックの道路拡張で削られて、ごく小さくなった。私は毎日のようにタクシーから拡張工事を見ていたのだが、これには気づかなかった。

銀座は戦後の街作り、道作りはなんとかなったのだが、どうも米軍の力にたより過ぎた気味がある。

ハットリと呼ばれた時計店(現・和光)はPXになり、他のデパートもPXになった。PXは米軍の酒保だが、このごろは酒保という日本語が通じない。辞書を引くと〈兵営内の売店〉とあるが、横浜・本牧のPXはそうだとしても、銀座を〈兵営〉と呼ぶわけにもいくまい。
銀座が混乱したのはバブル後といえるかも知れないが、私の考えでは東京オリンピックがもとだと思う。

東京オリンピックは1964年だが、その前に高速道路をあわてて作った。西銀座のあたりは西銀座デパートの上に、とりあえず道路の一部を作ったから、私は駐車場だと思っていた。じっさい、車がびっしり止めてあり、そこでNHKの教育番組を撮影したのが、忘れもしない1962年だ。
そこからデパート前の噴水、そこで踊る男たちを俯瞰撮影すると、「ウエスト・サイド物語」(1961年)そっくりになる。夜にライトをつけて撮影したのだが、デパートから文句を言われないのかなと疑問に思った。
そういう状態だから、駐車場と思っていた場所がある日、高速道路に変化しても、クルマに疎い私は〈高速道路〉の意味がわからなかった。

日本橋の上をおおう高速道路はさすがにひどいと思ったが、これが批判されるようになったのは今から数年前である。
後藤新平とその一党が、関東大震災をきっかけに隅田川、数々の橋、隅田公園、浜町公園などを高度にデザインしたのに、高速道路で美観をこわすのは早い。
友人が、私の生れた町にきて、
「高速道路までが赤茶けて下町らしい」
と呟いたが、怒る気にもならなかった。どうせアメリカのどこかの市の高速道路を真似て作ったのだろうが、オリンピック用にあわてた作業をすると、こういうことになる。

1962年には、東劇のネオンが江戸橋から浜離宮庭園の脇に抜ける川にうつっていたのだから、東京オリンピックがすべてを破壊したのはまちがいない。

(『私の東京地図』より抜粋)

書籍データ

私の東京地図 表紙
概要下町に生まれ、和菓子屋の十代目を継ぐべき人間だったが、空襲で焼け出され、山の手に移り住んだ。それからずっと東京の街を見てきたが、なじみの映画館やレストラン、洋服屋はかなり姿を消し、どんどん変わっていく。記憶の中にある風景を思い浮かべ、重ね合わせながら歩く、東京の今と昔が交錯するエッセイ集。
タイトル私の東京地図
著者名小林信彦
出版社筑摩書房
刊行日2017年7月6日
判型文庫判
頁数254
定価本体価格720円+税
ISBN978-480434500