デリダと死刑を考える 背表紙
社会の知恵

「死んでお詫びをする」という日本の情緒?

「死刑存廃論はあくまでも感情の問題へと縮減される」。──慶應義塾大学理工学部准教授(フランス・イタリア現代思想)の高桑和巳さんが、日本の死刑廃止論において最大の問題である「国民感情」について説明しています。

死刑制度が廃止されている国家は、事実上執行が停止されている国家を含めると、二〇一七年の時点で一四四か国であり、存置の五十七か国の二倍強となっている。各国の人口を考慮すれば比率は逆転するが(中国、インド、アメリカ合衆国(州によるが)、インドネシアなど、人口ランキングのトップ十か国のうちブラジルを除く九か国が存置国である)、これは人口がアジアに集中していることによる部分も大きく──要するに、アジアに死刑存置国が多い──、地域によっては、当該地域内の各国の人口を考慮したとしても、死刑廃止への移行は実質的に最終段階に達している(ヨーロッパ、南アメリカ、オセアニア)。事実上、全体の傾向は廃止への一方向である(つまり、不可逆的な様相を呈している)。

死刑制度は国内法に関わる事柄だという理由から、日本における死刑制度を考えるにあたってこのような国際的趨勢への配慮を不要と見なす立場も存在するが、そのような議論立てが、仮に日本がたとえばヨーロッパに位置していたばあいに実質的な意味をもちうるとは思えない。その意味では、存置ないし無関心の立場が、アジアという一地域での国際的趨勢を意識的にか無意識にか惰性で追認するものにすぎないという可能性も想定できなくはない(念のため言い添えるが、それはアジアには本質的な、乗り越えがたい特殊性がある、などという意味ではもちろんない)。

何よりも、法の支配、人権、立憲主義、適正手続といった数々の根本概念──国際的かつ歴史的に彫琢され受け容れられてきた──を私たちが共有するのであれば、死刑制度がそれらとの関わりで是非を問われうるのは当然である。そのように是非が問われる局面は、関連する条約──たとえば死刑廃止条約(通称)──に対する署名・批准について云々するばあいにも当然生じてくる。

にもかかわらず、死刑制度をその根本にまで立ち返って深く考えることは、日本では相当に場違いな印象を与える。たとえばだが(直接は関係しないように見えるが、並行的な考察をおこなうこともけっして不可能ではない)、死刑制度の是非を云々することはちょうど、象徴天皇制の是非(あるいは、純然たる共和制への移行の是非)を云々するのと同じくらい現実味がないように感じられるのではないだろうか? 両者はともに、理論的にせよ実践的にせよ是非を広く論じられてよい制度と思えるが、感情的であるにとどまらない積極的議論が公衆を巻きこんで展開されたことはない。

実際の執行がなされるたびに、あるいは凶悪とされる犯罪が発生したり死刑判決が下されたりするたびに、死刑制度は時事としてそれなりに話題になるとはいえ、重要な政治的論点からはほぼつねに外されている。知るかぎりでは、選挙で死刑制度の是非を第一の争点として掲げる有力候補者は存在したことがない。

世論の水準においては、死刑存廃論はあくまでも感情の問題へと縮減される。第一に語られるのはつねに、遺族の応報感情──正確には、その感情を忖度する公衆の感情──である。その他、法確信や社会防衛や犯罪抑止も、不安感ないしセキュリティ不全感との関わりで議論されるのが常である。犯罪抑止に関する議論においては、最終的には統計的証拠さえ脇に除けられることがしばしばである。重要なのはつまるところ、実感という名の不実な感覚である。

それらすべてを大きく包みこむのが、国民感情と呼ばれる漠然とした情緒である。民衆はこの感情を自らのうちに歴史的に醸成してきたものと見なされ、大多数の人々は実際にそのような情緒のうちにあると自ら信じている──ということは、そのような情緒は(歴史的に構築されたものであれ何であれ)いま、実際に存在する。

やはり引用すべきは、二〇〇二年に、日本訪問中のヨーロッパ評議会の代表団を前にして森山真弓法務大臣(当時)が悪気もなく口にしたとおぼしい、日本には「死んでお詫びをする」という文化が根づいているから死刑存置にもそれなりの根拠があるという趣旨の発言である。道徳・倫理・刑罰に関するこの種の感情が存在するのは事実である。森山の発言を心強く感ずる人々も少なくないだろう(ちなみに、森山の発言は誤解を生みやすい。死刑制度のメタメッセージは当然、「(私は)死んでお詫びをする」ではなく「(おまえは)死んで詫びろ」である)。

そのような情緒は不変のものではない。それが「日本らしさ」(そのようなものがあるとして)をつねに規定してきたわけではない。仏教思想を引きあいに出して正反対のことを主張することもできるし、平安時代に長期にわたって死刑執行が停止されていたらしいという歴史的事実を援引することもできる。ただし、これらは同水準の地域的・文化的特殊性を云々しているかぎりにおいて、結局はあまり内実ある反論ではない。

それよりも、そのような情緒を個人的にある程度理解する(さらには実感すらしている)人がいるとしても、その人がその情緒を法的水準に反映させることにつねに同意するとはかぎらないということのほうが重要だろう。言い換えれば、そのような相対化可能な情緒が、法確信の一要素として組み入れてよいほどの本質的なものであるかについてはつねに疑念の余地がある、ということである。

ともあれ世論は、原則に関する根本的な無関心とともに、つねにこの情緒のうちにある。これが日本における死刑廃止論の困難のなかでも最大のものである(なお、他方の存置論も、情緒を離れたところで内実ある議論を広範に形成することはなかった)。

この状況下で廃止論側は事実上、そのつど最高刑のアクロバティックな回避を企てざるをえないということもあり、人々の情緒に訴えることにことごとく失敗してきた──というより、有り体に言えば、むしろ人々の情緒をそのつど逆撫でしてきた。そして、成人の八割が存置容認を表明するという周知の結果(二〇一四年度の「基本的法制度に関する世論調査」)に至る。

直接の情緒から離れた本質的論点──誤判・冤罪の可能性や刑罰の残酷さ──をいまさら云々しても、世論はもはやそのような議論に耳を傾けなくなってしまったように見える。しかし、廃止論にはもともと、この問題を情緒から引き剥がすという以外の道はなかったのだろう。だとすればもう一度、いや何度でも、原則の側から論じなおすのでなければならない。情緒の国にあって、その身振りがいかに絶望的なものに見えようともである。

(『デリダと死刑を考える』より抜粋)

書籍データ

デリダと死刑を考える 表紙
概要デリダで/とともに考えるのは、ソクラテスからオウム真理教まで! デリダの脱構築を手がかりに、政治と宗教と権力の力学をあぶりだし、死刑を考えるためのハンドブック。編者の緒言(高桑和巳)をはじめ、六人の執筆者による書き下ろし。収録論考は「ギロチンの黄昏──デリダ死刑論におけるジュネとカミュ」(鵜飼哲)、「ヴィクトール・ユゴーの死刑廃止論、そしてバダンテール──デリダと考える」(江島泰子)、「デリダの死刑論とニーチェ──有限性についての考察」(梅田孝太)、「定言命法の裏帳簿──カントの死刑論を読むデリダ」(増田一夫)、「ダイモーンを黙らせないために──デリダにおける「アリバイなき」死刑論の探求」(郷原佳以)、「デリダと死刑廃止運動──教祖の処刑の残虐性と異常性」(石塚伸一)。
タイトルデリダと死刑を考える
著者名高桑和巳
出版社白水社
刊行日2017年11月27日
判型4-6
頁数270頁
定価本体価格3000円+税
ISBN978-4560096710