常世の花 石牟礼道子 背表紙
こころの知恵

石牟礼道子の文学とは

『苦海浄土』の作家・石牟礼道子さんがこの世を去ってから1年になる。水俣病患者の苦しみを見つめ、歴史の深みから言葉をくみ上げた石牟礼さんと親交のあった批評家・随想家が追悼する。世界文学とも評される石牟礼文学の真髄とは何か。

この数年、石牟礼さんの体調がよいときを見計らって、雑談をしに彼女の住まいを訪れていた。メモや録音をするでもなく、ただ漫然と話を聞く。

水俣での幼き日のこと、『苦海浄土 わが水俣病』の執筆をめぐって、敬愛していた白川静のこと、足尾銅山鉱毒事件で民衆の救済を訴えた田中正造について、彼女は秘めた宝珠に日の光を当てるように穏やかに語った。

石牟礼さんの言葉は、誰にも似ていない。特異の律動を有している。それがいわゆる学習の結果なら、あの無常をたたえた響きが生まれることはなかっただろう。

彼女は類を見ない、優れた歴史感覚の持ち主だった。言葉を歴史の奥底からくみ上げる稀なる才能に恵まれていた。

その感覚は、島原の乱で亡くなったキリシタンと水俣病事件をめぐる運動に参加した人々をつなぎ、水俣病事件と足尾銅山鉱毒事件をつないだ。

その言葉は、現代が危機に直面したとき、いっそう力強く浮かび上がった。東日本大震災のあと「花や何 人それぞれの 涙のしずくに洗われて 咲きいづるなり」という一節がある「花を奉る」と題する彼女の詩に、慰めを見出した人も少なくなかったのではないだろうか。

『苦海浄土』をどのような心持ちで書いたかを尋ねたことがある。しばらく沈黙したあと彼女は、静かにこう語り始めた。

これまでにないことが起こったのだから、これまでにない様式で書かねばらないならないと思った。詩のつもりで書きました。書くことは、一人で行う闘いです。今も闘っています、と語った。あのときの佇まいを忘れることができない。

石牟礼道子は現代日本で、語らざる者たちの嘆きという、最も大きな問いを生きた書き手の一人であり、真の意味における闘士だった。『苦海浄土』は詩で、石牟礼道子は稀代の詩人だった。

また、しばしば彼女と語り合ったのは、亡き者たちのことだった。石牟礼さんにとって書くとは、自らの思いを表現する以前に、語ることを奪われた者たちの言葉をわが身に宿し、世に送り出すことだった。

坂本きよ子さんという水俣病で亡くなった若い女性がいる。石牟礼さんは彼女を知らない。その母親から伝え聞いた言葉として、石牟礼さんは次のように書いている。

何の恨みも言わじゃった嫁入り前の娘が、たった一枚の桜の花びらば拾うのが、望みでした。それであなたにお願いですが、文(ふみ)ば、チッソの方々に、書いて下さいませんか。いや、世間の方々に。桜の時期に、花びらば一枚、きよ子のかわりに、拾うてやっては下さいませんでしょうか。花の供養に (「花の文を 寄る辺なき魂の祈り」)

水俣病のため、ほとんど動けなくなった体で、この女性は、何かに導かれるように花びらを拾おうとして、這うように庭に向かい、縁側から転げ落ちる。その姿を母が見つけたのだった。

もうすぐ桜の花が咲き始める。地に落ちた花びらを手に、きよ子さん、そして石牟礼さんへの哀悼の意を表現することもできるのだろう。

(『常世の花 石牟礼道子』より抜粋)

書籍データ

常世の花 石牟礼道子 表紙
概要人間を超え、生類へと広がる世界を見つめ続けた石牟礼道子。『苦海浄土』をはじめ数々の名著を遺して世を去った作家が生涯を賭して闘ったものとは何だったのか。作家と親しく交流し、NHK「100分 de 名著『苦海浄土』」で講師もつとめた批評家がその精髄に迫る。石牟礼道子と著者の対談も収録。
タイトル常世の花 石牟礼道子
著者名若松英輔
出版社亜紀書房
刊行日2018年4月20日
判型四六判
頁数178頁
定価本体価格1500円+税
ISBN978-4750515465