倫理21 背表紙
社会の知恵

「世間」という得体の知れないものの力

SNSでのフォロアー数を競うような人々は、なにを目的にしているのでしょうか? しばしば起こる「炎上」は、いったい誰がどういうモチーフで裁いているのでしょうか? これらの現象は、最近になって登場してきたものではなく、おそらく日本の文化に深く根ざした「世間」というものと深く関わっています。

子供がやったことになぜ親が「責任」をとるのか。その場合、誰に対する責任なのか。それは「世間」といったものに対してです。罪を犯した子供はそれなりに処罰されますし、その親もそのことで十分に苦しみ、罰を受けている。被害者の親が怒りを禁じえないというのはわかりますが、なぜ「世間」が──現実にはジャーナリズムが──、その怒りを代弁するのでしょうか。もしその結果として、非難攻撃された親が自殺したとして、そのことに「世間」は責任をとるでしょうか。「世間」というのは曖昧模糊としたものです。はっきりした主体がない。誰かが親を追及するとすると、その人は自分はともかく、「世間が納得しない」からだというでしょう。

欧米にはキリスト教的道徳があり、それが個人主義の基盤になっていると、よくいわれます。しかし、別の意味で、儒教圏の中国や韓国にも道徳的機軸があり、それが逆説的に、一種の個人主義を可能にしています。日本にはそのようなものがない。そのかわりに、「世間」という、得体の知れないものが働いているのです。本居宣長は、道徳というようなものは中国から来たもので、いにしえの日本にはそんなものはなく、またその必要もなかったといいました。ある意味で、この指摘は正しい。日本人は、道徳というと、何となくけむたいような感じを受けます。戦後アメリカ化によって道徳観が壊れたというようなことをいう人がいますが、それは嘘です。しかし、道徳的規範がないということは、まったく自由で、共同体の規制がないということを意味するのではありません。なぜなら、規制は「世間」というものを通してなされるからであり、この「世間」の規制は極めて強く存続しています。

たとえば、日本では家父長制がまだ強く残存しているといわれます。また、この家父長制は、古いものではなく、明治以後の近代国家・資本主義とともに形成されたということもできます。しかし、欧米や韓国の家父長制と比べてみると、どうだろうか。むしろ日本の家父長制においては、たしかに親は子供を拘束しますが、その前に親がまず子供に拘束されており、そういう相互的規制の中にあると思うのです。なぜなら、子供が何か起こすと必ず親の責任が問われるという構造になっているからです。一見すると親は権力を持っていて、威張っているけれども、親の方が実は子供のことでびくびくしている。その意味で、いつも子供の犠牲になっている。そのためにまた子供を拘束してしまう、ということじゃないかと思うのです。

私たちは、このような差異に敏感でなければならない。そうでないと、闘うべきものを見間違えてしまうからです。柳美里という作家は在日韓国人であることを主題として使いたくないといっており、それはそれでいいのですが、それは必ずしも作品を普遍化することにはなりません。彼女の作品には、日本の父親ならありえないような父親が出てきます。或る芥川賞選考委員が、このような父親がいるはずがないといって否定しました。ところが、彼は、この作家は在日の人ですよ、といわれて納得するとともに、「しかし、それならそのように書くべきだ」といったそうです。私も基本的に同感です。

柳美里だけでなく、一般に、「私小説」に関する誤解があります。たとえば、私小説は「私」という人称で書かれたものであると思っている人たちが多い。しかし、三人称で書かれたものも数多いのです。さらに、フィクションがかなり加えられています。だから、そのような外形からは、私小説かどうかを判断できません。厳密に定義すれば、私小説とは、作品外の文脈に依存しなければ成立しない小説を指します。いわゆる私小説の中には、別に作者のことなど知らなくても成立するものもあり、また、逆にいえば、どんな小説も私小説的に読むことができます。だから、「私小説」かどうかは、その外見だけではわかりません。柳美里の小説は、韓国人が出てこないが、作者が在日韓国人だという情報によってはじめて意味をなすのだとすれば、それは「私小説」なのです。在日韓国人が出てきても、「私小説」になるわけではありません。

柳美里の作品には、この種の無知のために、かえって意外に新鮮な面が出てくるということができますが、それは本当の力にはなりません。柳美里は小説のモデルにした韓国人の女性から名誉毀損で訴えられたのですが、それを是認する判決に対して、これでは、日本の私小説の伝統が損なわれるというようなことをいいました。しかし、私小説は伝統的であるとしても、たんに否定すべきものにすぎません。この判決が「言論の自由」にかかわるとしたら、それは私小説が書けなくなるということではなく、『不敬文学論序説』(太田出版、一九九九)を書いた渡部直己がいうように、今後、天皇をモデルとする小説が書けなくなるということです。

神戸の事件以来、今子供がおかれている状態が色々言われます。確かに子供の今の状態がひどいということはよくわかるし、その原因も様々あるということもわかります。たとえば受験勉強にしても、昔からありますが、今のは昔の比ではありません。それはポスト産業資本主義社会において、教育によってより高い「労働力の価値」をもたねばならなくなっているからで、世界的にどこでもそうなっています。では、なぜ日本ではこんなにひどい状態になったのだろうか。韓国でも受験競争は激烈ですが、どうも違うような気がします。親がやれといえば、子供はやる。しかし、日本では、親はそのように命令しない。「私はこんなことを言いたくない、本当は子供を自由にのびのびさせたい」と、どの親もいうのです。しかし、もしそうしたら、子供が結果的にいやな目に遭うのではないか、と思う。子供の将来に責任を感じる。子供を大事にするということで、子供を拘束し、そしてそのことで自分が拘束されている。

昔、太宰治が「子供よりも親が大事」と言いました。これは家父長的に聞こえます。しかし、日本では、必ずしもそうではないのです。たとえば、自分が何かをしようとすると、子供がいるのだからやめなさいと言われる。特に女性の場合よくそう言われると思う。このようにして親が拘束されます。結果的に、そのような親は子供を拘束します。たとえば、日本の母親は子供に「──するな」というよりも、「お願いだから──しないで」という場合が多い。そのとき、子供は命令されるわけではないけれども、別の縛りを受けます。このような所では、まずもって親が大事だといわなければならない。子供より親が大事だということが、結果的に子供を大事にすることになる、ということです。太宰は、家族を犠牲にして遊蕩に耽った作家で、「義のために遊ぶ」などといっていました。私は太宰治は嫌いで、「親があっても子は育つ」と言い放った坂口安吾のほうが好きなのですが、ただ、そこに或る洞察があることは否定できません。日本的な家族制と闘うことは、たんに子供が親と闘うということではすまない。親も子も共に強いている或る力と闘わねばならない。「子供より親が大事」という逆説は、そのことを指しているのです。

あとで述べるように、円地文子の『食卓のない家』(一九七九)はそれを主題にしています。このような作家たちは、闘っている相手がいわゆる家父長制よりも、何か別のものだと気がついていたと思います。それは、先ほどからいっている「世間」です。「世間」は、家族だけでなく、会社やあらゆる組織にも作用します。しかし、世間という得体の知れないものが、なぜこうも強い力を持つのか。われわれが日本で出会うのは、儒教とかキリスト教というような明確な道徳律ではなく、どこにもその主体も原理も明確にないような「世間」の道徳です。ちなみに、韓国では人口の約三分の一がキリスト教徒になっています。そのキリスト教はどこか儒教的であり、だからこそ根を張ったのでしょう。一方、「世間」と闘うのが難しいのは、それが気まぐれで、正体がはっきりしないからです。それにこだわっていると、「世間」はすぐに忘れてしまい、それを無視すると、「世間」はしつこく思い出させます。日本の週刊誌は、時々「あの人は今──」といった特集をしますが、「世間」はそういうものなのです。

このような「世間」がどこから来たのか。私は別の所でそれを考察していますが、それは徳川時代にいびつなかたちで形成され、明治以後も、さらに戦後の農地解放以後も解体されなかったムラ共同体に由来すると思います。戦前には地主による小作人の支配が「封建遺制」として論じられましたが、本当は、地主をも拘束しているのがムラ共同体です。ヨーロッパにおいても、中国・朝鮮においても、地主は領主または官吏であって、そこに封建遺制と鋭い階級対立がありましたが、日本では、徳川時代のムラ共同体がそのまま残ったのです。日本において「封建遺制」というべきものは、この共同体のことです。

ムラ共同体というと、緊密な親和的な集団のように見えます。しかし、昔、きだ・みのるというペンネームで、『気違い部落周游紀行』(一九四八)という本を書いた人がいます。この人は、フランスで学んだ人類学者でした。この本は、差別的なタイトルが災いして一時期斥けられてきましたが、一読に値します。これは、たんにありふれた日本の農村を、宇宙人が初めて見るかのように観察したものなのです。その中で印象に残っているのは、農民の間に友情というべきものがないということです。友情が存在するためには、「自己」がなければならない。しかし、その「自己」がないのです。中心は「世間」であって、それを彼らは恐れている。だから、彼らは孤立を恐れて仲むつまじく付き合いますが、ほんのうわべだけです。根本的にはエゴイスティックであるのに、「自己(エゴ)」がない。

私は、そこから、近年の若い人たちについて指摘されている「同調型ひきこもり」という現象を思い浮かべます。たとえば、彼らはイッキ飲みで明るく騒ぎますが、それは互いに深い関係をもちたくないということです。精神分析医の小此木啓吾は、それを「シゾイド人間」、つまり、分裂症的人間と呼んでいます。これは新たな現象、ポストモダン的現象なのでしょうか。必ずしもそうとはいえない。このような現象はアメリカにもあるし、他の先進国にも広がっています。しかし、日本の場合、それが極度に進行するのはなぜか。私は、それはムラ共同体が残存しているからだと思います。先ほどのべた村人たちは、他人と親密に付き合うが「友情」のような深い関係はもたない。彼らは天下国家に何が起ころうと、関心がないし、何もしない。自分たちの年貢さえひどくなければ、自分の土地さえ守られれば、何がおころうと知ったことではない。ただ、「世間」をおそれ、基準からずれないようにしている。

(『倫理21』より抜粋)

書籍データ

倫理21 表紙
概要子供の犯罪は親の責任なのか? 戦争責任とは? 環境への責任とは? そして、未来に対するわれわれの責任とは? 本書は、これらの具体的な問題を通して、これからの時代をいかに生きるべきかを徹底的に問い、21世紀の新しい思想を構想する。
タイトル倫理21
著者名柄谷行人
出版社平凡社
刊行日2003年6月9日
判型B6変
頁数211頁
定価本体価格840円+税
ISBN978-4582764710