音楽劇の歴史 背表紙
身体の知恵

ちょっとした「事故」で大人気に──ストリップ・ショー

オペラのパロディだったバーレスクは、客を呼ぶために「家族向きでない」ショーになり、品のない酒場のショーだったヴォードヴィルは、集客のために「家族で楽しめる」ものに。経営努力から後の芸能や芸人が生まれた。

◆ストリップ・ショーの起原──バーレスク

バーレスクという言葉は、今日のアメリカではストリップ・ショーに近い意味で使われているが、19世紀のイギリスではパロディ劇という意味で使われていた。バーレスクは、産業革命で誕生した大衆を観客として成立した。貴族階級は本格的なオペラなどを好んだが、そうしたオペラをパロディ化した作品がバーレスクと呼ばれ、大衆に愛されたのだ。アメリカでもイギリスとほぼ同時期の1840年代に始まり、1870年代まで数多く上演されたが、南北戦争以降はこれに新しい動きが加わった。大型化とセックス・アピールの導入だ。

セックス・アピール入りのバーレスクはイギリスの発明で、女性ダンサーのタイツ姿を見せるショーをアメリカに伝えたのは、リディア・トムプソンだった。1864年にイギリスでヒットしたギリシャ神話を題材とした作品を、アメリカの観客向けに改変して簡単なパロディ劇にし、歌や踊り、パントマイムなど様々な芸能を盛り込んだ。物語よりも、タイツ姿のダンサーたちが脚を高く蹴り上げるハイキックを見せるのに主眼が置かれていて、同じような脚見せショーの『黒い悪魔』に続き、大いに受けて120回の続演を記録した。

バーレスクには、こうした女性の脚を見せる方向性と、大規模化して豪華絢爛さを見せる方向性があり、やがて二つに分離していく。豪華絢爛さを見せる方向では、フランスから導入されたレヴューと結びつき、ジーグフェルドの『フォリーズ』に代表される上品なブロードウェイ・ショーとなる。もう一つは、今日のバーレスクと呼ばれている、女性の身体を見せるストリップ・ショーとなった。

ストリップ・ショーへの展開は、ミンスキー劇場でのバーレスク上演から次第に広まった。ミンスキー劇場は、ニューヨークでも不便な場所にあったため、当初は映画を上映したが、客が入らなかった。そのため、『フォリーズ』よりも安上がりで、客を呼べるバーレスク劇場として運営するようになった。しかし、劇場の観客は貧乏な労働者層が多く、『フォリーズ』の二番煎じのような上品なショーでは満足しなかった。そこで観客を男性に絞り、「家族向きのショーではありません」と銘打って、ショー内容の転換を図った。

ミンスキー劇場は、「動く」女性の裸を見せたために、1917年に警察の手入れを受ける。これは、服を脱ぐと同時に、大きな羽根の扇で体を隠す振付だったにもかかわらず、あるダンサーがつい「ぼんやり」として、隠すタイミングが遅れてしまった「事故」だとされた。しかし、彼女はたびたびぼんやりとして事故を起こすようになり、客席は賑わった。そのため、劇場は何回も手入れを受けた。こうした事情は『ミンスキーの劇場が手入れを受けた夜』(1968)として映画にも描かれている。

日本では1930年頃に榎本健一の第2次カジノ・フォーリーが、川端康成の新聞小説『浅草紅団』で紹介され、「金曜日には踊り子がズロースを落とす」という噂が世間で広まり、客が押し寄せたのと似ている。

人気の出たミンスキー劇場のバーレスクは、不況の1930年代にはブロードウェイの中心部にも進出。ストリップ化したバーレスクはすっかり市民権を得て、ジプシー・ローズ・リーのような人気ストリッパーや、多くのコメディアンたちを輩出した。だが、1935年にフィオレロ・ラ・ガーディアがニューヨーク市長となると、規制を強化したために、舞台で見せる内容は穏やかなものとなる。

しかし、それ以降もバーレスクは根強い人気を得て生き残り、1960年代末からの性革命で過激さを増した後、20世紀末になると、懐古趣味も加わり、単なる裸ではなく「色気」を見せる、「ネオ・バーレスク」の動きも出ている。

◆現代に続くアメリカの大衆芸能──ヴォードヴィル

アメリカのヴォードヴィルは、1850年代にサルーンと呼ばれる酒場で、歌や踊りが提供されたのが前身だ。西部劇映画を観ると、酒場で簡単なショーが行われる場面が登場するが、そうした興行形態だった。こうしたショーが一般的になるのは、南北戦争後の1870年代以降。飲食といっても、ほとんどは酒を飲みながら観るいささか品のないショーだった。

男ばかりの観客では、客足が伸びないと見た興行師トニー・パスターが、家族で楽しめるショーにするため、飲食の提供をやめて女性客も呼び込んだことから、近代的なヴォードヴィルが発展する。そうした事情はイギリスのミュージック・ホールと似ている。また、観客の増加に伴い、婦人客の大きな帽子が視界を妨げる問題が発生したため、鑑賞時には帽子を取ることを義務付けるようになった。

ヴォードヴィルは、一座が興行する形態のミンストレルズに代わり、19世紀後半のアメリカの大衆娯楽の本流となり、その流れは20世紀に入っても続いた。だが、1920年代末の大恐慌の発生と、トーキー映画の登場により姿を消した。

「ヴォードヴィル」という名称は、フランス語の「町の声」voix de ville とか、フランスの地名から来ているとする見解もあるが、本当の語源はわからない。各芸人が見せる芸に、連続性や一貫性はなく、自分の得意芸、持ち歌などを披露する。別名ヴァラエティ・ショーとも呼ばれ、歌、踊り、楽器演奏、漫談、漫才、曲芸、動物芸、奇術、寸劇、ミンストレル芸、奇形のショーなど、なんでもありで、日本の寄席に似た形態だ。

ヴォードヴィルからは多くの芸人たちが誕生した。エヴァ・タングウェイ、リリアン・ラッセル、ノーラ・ベイ、ブロッサム・シーリー、ソフィー・タッカーなどの歌手。W・C・フィールズ、ウェバーとフィールズ、バスター・キートンなどのコメディアンも有名になった。後に台本のしっかりとしたミュージカルへの流れを作るジョージ・M・コーハンも、フォア・コーハンズという四人家族でヴォードヴィルに出演していたし、姉アディールと組んで踊った時代のフレッド・アステアもヴォードヴィル出身だ。

◆見世物と博覧会

開拓時代のアメリカの芸能には、イギリスからの芸能に加えて、ヨーロッパ諸国から伝えられた見世物的な芸能もあった。簡単なショーを見せながら、万能の薬を売り付ける「メディスン(薬屋)ショー」や、サーカス、博物的な知識を教える啓蒙的な内容の見世物などである。

これらはいずれもヨーロッパ起源で、「薬屋ショー」はドニゼッティのオペラ『愛の妙薬』に描かれた薬屋の姿とあまり変わりない。人寄せのために、薬の販売の前に簡単な見世物があった。薬屋は馬車を使って村々を回り、娯楽を提供すると同時に怪しげな薬を無知な人々に売り付けた。

サーカスも古い芸能で、その起源は古代ローマ時代より古いともいわれるが、近代的なサーカスは18世紀のロンドンで始まった。アメリカでサーカスが盛んになると、どんどんと巨大化、大型化して全土を回るようになる。サーカスにおける道化のメイクは、ミンストレルズの黒人メイクに大きな影響を残している。

啓蒙的な見世物は、ヨーロッパの啓蒙主義や国際博覧会の影響を受けているが、見世物で新しい知識を得ることから、博覧会と同等のものと考えられた。そこで、レヴューや芝居を上演する劇場に「博物館」と名付けることもあった。こうした考え方はその後も残り、20世紀初頭の大規模レヴューは、文明化の様子を再現する形式がとられた。

啓蒙的な見世物の伝統は、アメリカで独自に発展してエクストラヴァガンザとなったり、「シャトークア(文化講習会)」と呼ばれる形態で生き残った。シャトークアの様子は、エルヴィス・プレスリーの映画『トラブル・ウィズ・ガールズ』(1969)にも描かれている。

(『音楽劇の歴史』より抜粋)

書籍データ

音楽劇の歴史 表紙
概要オペラは「芸術」でミュージカルは「娯楽」。こんな区別があたり前になっている。しかし、オペラも元は「娯楽」。なぜ大きく違ってしまったのか。これまで、あまり注意が払われてこなかった「観客」や「技術」、「政治経済」といった視点から、音楽劇全体を一つの歴史としてとらえ、ジャンルを縫い合わせて俯瞰して見たとき、オペラ、オペレッタ、ミュージカルの関連と変遷が、あざやかに見えてくる。
タイトル音楽劇の歴史
サブタイトルオペラ・オペレッタ・ミュージカル
著者名重木昭信
出版社平凡社
刊行日2019年3月14日
判型四六判
頁数408頁
定価本体価格4800円+税
ISBN978-4582219739