言語学講義 背表紙
社会の知恵

日本では、言語政策・言語計画がほぼ欠落している

日本語話者が多い日本においては、国家と言語の関係を考える機会は意外と少ない。日本語は公用語ではない、話す言語を選ぶ権利、日本語は滅びるのか、国家による言語純化政策、など切り口が実はたくさんあるのだ。

†日本語は消滅するのか?

危機言語というと、「日本語は大丈夫か」と心配する人がいる。

日本人は意識していないことが多いが、日本語は大言語である。母語話者はゆうに1億人を超えている。母語話者数のランクでは、母語話者の基準が異なるため何種類かのデータがあるが、10億人を超える中国語には及ばないものの、6000以上ある言語の中でだいたいトップ10くらいに位置している。母語話者数だけなら、ドイツ語やフランス語よりも多いくらいだ。

もちろん、英語・スペイン語・アラビア語・ポルトガル語・ヒンディ語・ベンガル語を母語にする人は日本語母語話者より多い。外国語としての人気は国によって違い、英語圏以外では英語が圧倒的なトップであるものの、外国語学校や中等・高等教育での学習者数・開講数を見ると、日本語はだいたいどの地域でも10位以内に入っている。こういった状況を踏まえると、日本語が「大言語」というカテゴリーに入ることは論じるまでもなく、当面は「危機言語」になることは考えられない。

しかし、日本語の将来に懸念や不安を覚える人は多いようである。水村美苗『日本語が亡びるとき』(筑摩書房)は、文学を担う言語としての日本語の力や存在感が衰退していく局面にあることを英語との比較を念頭に述べているが、上に述べたように、6000以上ある言語のうち大半はその言語で書かれた文学が出版されている状況ですらないので、文学的衰退の局面にあるとしても、それだけをもって言語学的には日本語の衰退とは言えない。

また、津田幸男氏の『日本語防衛論』(小学館)をはじめとする一連の著書では、英語を社内公用語にしたり、過剰な英会話教育シフトを行ったりすることの問題点を指摘している。英語を勉強しても日本語は滅びたり弱体化したりはしないと思う人も多いかもしれないが、伝達や記録に使う実用言語は競合する関係になるので、長期的に見れば、影響は及ぶことになる。

†バイリンガルは滅びへの道

危機言語の世界では「バイリンガルは滅びへの道」と言われている。2つの言語ができるのは便利なようだが、当然その習得には手間や時間や費用といったコストがかかっている。1人の人間がAとBという2つの言語を使いこなす能力を持っているとき、一方が英語のようにどこでも使える有力言語で、一方が自分の村の年寄りしか使わない弱小言語であれば、当然のことながら有力言語の使用比率が高まっていく。

子供の世代では有力言語に傾き、弱小言語は祖父母との会話でしか使わないのであれば、使いこなすほどの高度な能力は要らなくなる。結果的に世代が下るごとに有力言語へとシフトしていくのは自然な流れである。その行き着く先は、有力言語のみのモノリンガルである。

母語のように一度獲得してしまった能力は簡単に低下しないが、使っていないと瞬発力が低下したり、以前ほど巧みに使いこなせなかったりすることはある。ただ、また使い始めれば昔の勘が取り戻せることも多い。もちろん、不完全にしか習得していない外国語の場合は、時間が経つと知識が劣化して、容易に復活しないこともある。

同じように、日本語と英語を習得して、どちらも読んで書ける、聞いて話せるレベルであれば、英語のほうが使える場面が多いから英語に傾斜していく可能性がある。もちろん、母語の日本語のほうが圧倒的に得意であるとか、英語は仕事で使うだけで日本に居住し続けるというのであれば、最終的には日本語に傾斜する、というか、戻ってくるであろう。

しかし、中には英語に傾斜して母語としての日本語を使わないで生きていくという人が出てくる可能性はある。10年に1パーセントそういう人が出てきても、100年経てば日本語を捨てる人が累積で1割を超えてしまう。しかも、人口減少の縮小時代である。

†使う言語を選ぶ権利と、言語管理政策

有能な人材が海外流出するのは残念だが、だからといって外国語教育をしないとか、英語を習得させないとか、そういうわけにはいかない。個人のレベルでは、外国語を習得してキャリアをレベルアップしていく権利を保障するべきなのだが、制度や共同体の運営というレベルでは、安易に日本語の弱体化に向かわないようにすべきだという主張にも理由がないわけではないのだ。

人は母語を自分で選べないが、個々人がどのような言語を学ぶのか、使うのかということには、自由な裁量が保障されている。ただし、伝達手段としての言語は通じなければ用をなさないから、理解可能で受容可能な言語を使わなければならない。自由な権利を保障することと野放しにすることは異なる。

言語が混乱しないようにするにはどこかで言語管理が必要になる。言語管理には表記や使用文字、使用語彙についてなど細かな定めから、どのような言語を用いるかなど大きな方針までが含まれる。

これに、言語教育などに関わる政策を加えると言語政策と呼ばれるが、この種の政策は長期的な計画を立てて進める必要があるので、言語計画(Language Planning)と言語政策(Language Policy)はセットになることが多く、「言語政策・言語計画」(略称でLPLP)ということも多い。

†現存する「言語純化」

言語政策の一環として「言語純化」をおこなっている国もある。外国語からの借用語が増えないようにすること、あるいは、かつて入った借用語を使用禁止にしたり、別語に置き換えたりすることが主たる純化となる。

たとえば、日本でも戦時中は英語を敵性言語として排除したことがあるが、いまでもトルコや韓国では見られる。韓国の国立国語院は1910年から45年に取り込まれた日本語を使用禁止にして別語で置き換える施策を担っている。植民地時代の日本語を排除するという趣旨であるが、日本語と言っても主に和語(やまとことば)に起源のあるもので、漢語は対象になっていない。

明治以降、いまは使わないものも含めて、西欧語(英語・フランス語・ドイツ語など)からの翻訳のために造語された漢語を「近代漢語」といい、膨大な数の近代漢語が生み出されたのであるが、韓国における言語純化では、日本語から入った近代漢語は排除されていない。

社会だの哲学だのを片っ端から別語で置き換えるのが困難だということもあるが、素材が漢字であるため、日本らしさを感じないからであろう。「働」は本来日本で作られた国字(和製漢字)であるが、中国や北朝鮮でも使われている。一方日本語は、近世までは中国語からの借用が多く、長い歴史のなかでは漢語と和語が混ざり合っているところも多い。近代以降は、欧米から借用語が多く取り込まれて、それがいまでも続いている状態だ。

日本語は、借用語を名詞として取り込み、それに「する」をつければ動詞になり、「だ」をつけて連体形で「な」に活用させれば形容動詞になる。形容動詞は機能上形容詞と同等であるし、その連用形として「に」を付せば、副詞として使える。

つまり、名詞として取り込めば、動詞・形容詞・副詞に転用できるので、かなり使える範囲が広がるシステムができているのである。一般的に、文をつくるには名詞と動詞が必要であり、名詞の修飾を形容詞が、動詞の修飾を副詞がおこなうことを考慮すると、借用語だけでも文が作れることになる。

「ハッピーなメモリーがビビッドにリバイブする」などとは普通言わないが、語彙的な部分に借用語を当てて接辞(語尾)や倚辞(いじ)(助詞類)などに和語を使えば文はできあがる。このようなシステムが整っていることもあって、日本語は借用語を取り込みやすく、結果として、安易に多くの借用語が入ってくるのだろう。

もちろん、新しい語彙が増えても、実際に使われる語彙、定着する語彙は限られているから、いわば、言語共同体が持つ調整能力に任せておいても、いまのところ、重大な事態にはならないと考える人が大半なのではないだろうか。

†日本に言語政策はあるのか

「日本では日本語が使われている」ことを当たり前だと思っている人は多い。終戦直後にGHQの指示で識字率を言語学者が調査したことがある。学校に行けなかったから読み書きはできないという方がいても、自分の名前やひらがななどは読み書きできたそうで、一文字もわからないという人には出会わなかったという。また、日本全国津々浦々どこに行っても、標準語がわからないという人もいなかったそうである。これは、アイヌの人々に対する同化政策や標準語教育の結果という面がある。

いまでもたまに「日本は単一民族国家だ」などと発言する政治家がいるが、言語的な画一性はその根拠にはならない。母語は言語習得期の環境で決まり、血統や遺伝子はほぼ無関係だからである。しかも、21世紀の日本には日本語を母語にしていない人も多く居住している。

一方で、日本国籍でなくても、日本語を母語とする人も少なくない。国籍管理や移民管理をしておけば、言語管理をしなくても、日本語は安泰でなにも変わらないと考えている人がいるとしたら、誤った現状認識である。ただ、今の日本において、その種の言語管理を含む明確な言語政策・言語管理が不十分であることもまた確かである。

†公用語のない日本

言語政策には表記や敬語に関する基準策定も含まれる。日本では、漢字使用の目安となる常用漢字表(かつては当用漢字表といった)を定めているが、これも表記の指針なので広義の言語政策に含まれる。とは言え、常用漢字以外の漢字の使用を禁止するというようなものではなく、常用漢字表外の漢字を使うときに相応の配慮があればよい。

たとえば、「障碍(しょうがい)」の「碍」は常用漢字ではないので「害」に置き換えるという措置も言語政策の方向に沿ったものである。「害」の意味の一部が「碍」(さまたげる)と重なるので代替するのだが、「碍」と重ならない「害」の意味が好ましくないとして、ひらがなで「障がい」と交ぜ書きをすることもある。無視してよい差なのか、無視すべき差なのかの判断には、主観が強く関与するので、科学的な議論が難しい面もある。

「ティ」という音節が認められていなかった頃には「メキシコシチー」を正規の表記としていた時期もあったが、これも表記の政策のせいである。ほかには、敬語に関する指針も審議会で決めているがこれも義務ではなく、参考までに示している基準に過ぎない。日本の言語政策は、あるとしても、強制力はなく指針を示す程度の緩いものなのである。

また、日本では、日本語を法的に位置づけておらず、公用語についてもまったく決まりがない。言語政策・言語計画がほぼ欠落しているというのは、こういった実態があるからである。

†「英語を公用語にする」とどうなるか?

ひところ英語公用語論が騒がれたことがある。これが、日本語の相対的な衰退を覚悟した上で国際化のために英語を第二公用語にする、というのなら、それなりの意義はあるだろう。しかし、不思議なのは、日本語が第一公用語、英語が第二公用語になるという事態がどういうものなのかについて明確な議論がないことである。

英語が公用語とされ、日本語と同等の位置づけになって一番変わるのは、役所の業務である。役所は窓口での業務を日英バイリンガルで行わなければならない上、行政文書なども日英両方で作成しなければならない。公用語である以上、国民や市民はその言語で公的な手続きができなければならず、その権利が保障されるということである。裁判や警察の取り調べも日本語と同じように英語でもできるようにしなければならない。

そのためにはまず、現在有効な法律を全文英語にしておく必要があるだろう。これはもちろん原則論であるが、原則通りにしようとすると、役所の業務量は単純に倍になる。日英両語ができる人材を集めても業務量が倍であれば、倍近い人員が要るから、その分の費用がかかる。

実際にはすぐに日本語と英語を同じような言語に位置づけるのは不可能だから、どうしても必要なところだけ英語での対応をすることになるかもしれない。そうなると、英語は「準公用語」になってしまう。少なくともコストパフォーマンスを考えると非現実的なのだが、議論されていないのだ。

また、英語を公用語にしたとしても、短期間で変えるわけにはいかないから当面英語が今のような位置づけであるという見通しがなければならない。想定外の事態で、緊急の対応を迫られるのは世の常だが、先見の明が問われるところである。

現在は、機械翻訳の技術が進んでいる。そもそも翻訳や通訳は人間がしてもなかなか100パーセントの完成度にはならないが、機械翻訳が自然さに欠けても意味の理解に困らない程度の完成度であれば、万人が苦労して外国語を習得する必要があるのか議論すべき状況になることだろう。

(『言語学講義』より抜粋)

書籍データ

言語学講義 表紙
概要生成文法、構造主義、社会言語学、……旧来のイメージや枠組みを飛び越え、複雑系言語学、言語死の問題など、言語学には新しい知見や切り口がどんどん登場している。本書では、言語学の全体像や基本の構造を俯瞰しつつ、重要な分岐点にさしかかっている議論や新しい枠組みまでを縦横無尽に取り上げ「言語学の今」を浮かび上がらせてみたい。国家、発達障害、人工知能、……現代に即したキーワードも切り口に、最新言語学をガイドする。
タイトル言語学講義
サブタイトルその起源と未来
著者名加藤重広
出版社筑摩書房
刊行日2019年3月6日
判型新書判
頁数302頁
定価本体価格900円+税
ISBN978-4480072092