普遍論争 背表紙
こころの知恵

ドゥルーズがこだわった「存在の一義牲」

哲学史では、唯名論と実在論の対立として整理されてしまう「普遍論争」ですが、そう簡単な話ではありません。論争の登場人物たちの議論を掘り下げていくと、実は、「共約不可能性」や「意味」の理論などに現代哲学に通底する問題に取り組んでいたということが分かってきます。そこから逆に、「存在の一義性」のような中世哲学のキー概念理解の糸口が得られます。

偶有性は、ポルフュリオスの定義によると、〈あるものに消滅をもたらすことなく去来するもの、ないし同一のものにおいてあることもあらぬこともできるもの〉となります。例えば、肌が白いとか、髪が黒いとかいうのは、偶有性です。偶有性が変化しても、実体は変わらないということです。つまり、偶有性とは変化するものなのです。他方、実体は同一にとどまり、変化しないものです。

ところで、感覚の対象は変化するものです。感覚されるもので、変化することなく、永遠に同一にとどまるものも、もしかしたらあるかもしれませんが、伝統的には感覚されるものは変化するとされていました。他方、知性の対象は永遠で不変なものです。

そして、ここから〈実体は知性によって直接認識されることはなく、偶有性を介して間接的に認識される〉という格率が生まれたのです。〈見えるもの〉が感覚可能なもの、〈見えざるもの〉が感覚不可能なものとすると、偶有性と実体の間には〈見えるもの〉と〈見えざるもの〉の図式が成り立つことが分かります。

要するに、ここにも感覚と知性を媒介する問題のバリエーションが登場しているのです。近代哲学においてならば、感覚と知性を媒介するものとしての想像力・構想力(imaginatio)を持ち出すということもあるのでしょうが、中世においては異なった認識能力の間の媒介を求めるというのではなく、対象の側に媒介の機制が求められたのです。この辺は、十八世紀ドイツの構図とは違っています。

ドゥンス・スコトゥスが〈存在の一義性〉を主張したこともその辺と関連してきます。スコトゥスがそういう主張をした動機の一つは、〈実体は知性によって直接認識されることはなく、偶有性を介して間接的に認識される〉以上、もし実体と偶有性の間に〈存在の一義性〉が成り立たなければ実体について認識することはできなくなってしまうという点にありました。このように見てきますと、〈見えるもの〉と〈見えざるもの〉の対立は、知性と感覚の間にある落差を背景にしながらも、それを直接対象とするのではなく、対象の側における落差と、その媒介の問題として登場するということになります。この辺にはプラトンのイデア論と同じ問題の構図が見出されます。

そして、〈存在の一義性〉は、最も普遍的なものとしての〈存在〉を中心問題とするものでありながら、最も普遍的ではないもの、最も個別的なものとしての個体をめぐる問題としての「このもの性」、つまり個体性と密接に連関するものですから、ここに普遍の問題との関連が当然あるわけです。もっとも、誤解されないように付け加えておくと、普遍の問題は〈存在の一義性〉が問題圏域にするものと重なるものではありません。なぜなら、〈存在〉は最も普遍的なものでありながら、普遍ではないのですから。普遍論争の圏域は、実はカテゴリーに収まる範囲と同じです。存在の一義性は、その圏域を越えて登場するものです。アナロギアの場合でも同じです。そこには、〈存在〉概念に潜んでいるねじれのようなものがあって、そのねじれが実は、普遍の問題と〈見えるもの〉と〈見えざるもの〉の問題を重ならないようにしているように思われるのです。私が普遍論争が中世哲学における最大の問題ではないと考えるのも、このような事情があるからなのです。私には、普遍の問題とする圏域を越えたところ、カテゴリーを越えたところにある問題群の方がより大きな問題と思えるのです。

とりあえず、普遍論争との関連はこのくらいにしておきましょう。後で〈存在の一義性〉や〈存在のアナロギア〉を論じるときに再び登場する問題です。ここで、〈見えるもの〉と〈見えざるもの〉の問題の方に移っていきます。

〈見えざるもの〉というのはどういうイメージで捉えたらいいのでしょうか。芸術家の創作も〈見えざるもの〉を〈見えるもの〉に外化することですから、そういう場面で考えることもできます。その場合、印象(impressio)の対義語としての表出(expressio)が扱う問題とも重なります。そして、私自身、表出と、〈見えるもの〉と〈見えざるもの〉の問題を重ねて考えています。

しかし、私は、表出という問題において、内的なものを外化する機制が主要論点になるとは考えていないのです。というのも、外と内という二項対立がほころびを見せるところに問題を設定しているのですから。それが共約不可能性という概念に託しているものです。つまり、〈見えるもの〉と〈見えざるもの〉という問題設定が立てられるのは、〈見えるもの〉と〈見えざるもの〉が共通の尺度を持ちえない断絶──共約不可能性(incommensurability)──の基本的モデルとなるということに根ざしています。このような断絶を、神と被造物との間にばかりでなく、個人とその他者の間に考えることもできましょう。また、ある言語と別の言語、ある文化と別の文化との間に考えることもできましょう。その場合、重要なのは、共約不可能性の存在を主張することではありません。

共約不可能性というのは、本来正方形の一辺と対角線の間に見られる関係です。要するに、共通の尺度(共約数)がないという事態です。それを思想の場面に適用するのはふさわしくないことがありますし、ある場面で共約不可能性を想定できるという指摘が意味を持つこともありますが、問題は先にあります。そのような共約不可能性が見出される場合の紐帯がどのようにして可能なのかということなのです。もし共通の尺度が初めからなかったら、もし途中から壊れてしまったらどうなるのか、ということです。つまり、最も近くにあるべきものが最も遠いものである場合、秩序は崩壊してしまうのです。そして、遠近の尺度も失われてしまう。不変の尺度はいったいどこにあるのでしょうか。

私は神秘主義に関心を持っていますが、それは神秘主義の前提に一種の共約不可能性があるのではないか、という直観があるからです。永遠性、恒常性、必然性がスタティック(静態的)なものとしてあるのではなく、流動的、力動的なものとして語られることが哲学史の中でよくあります。スタティックなものが理想としては不十分なものだからではなく、そのようなもの──理念でもイデアでもかまいません──への憧憬を初めから妨げているものがあるようにも思われるのです。テロスが永遠にして必然的なものであるのは、テロスが備えるべき性質ですが、テロスへの道程に障害が存在し、テロスへの途上にあることをテロスにするしかないことがあるように思われます。

常に途上にあるという事態についてはよく語られますから、脇に置いておくとして、そこに登場する障害を、私は「共約不可能性」と呼びたいのです。共約不可能性とは対角線や対人関係だけに見られるものではありません。そして、現代は「共約不可能性」を実体化し、そしてそれへの対処の仕方を失った時代であると私には思われます。

中世において共約不可能性は神学的な場面で登場していますが、とにかく「共約不可能性」を日常性の中に住まわせていたように思われるのです。フランシスコの素朴な言葉の中に「共約不可能性」を感じ取るのは冒涜なのでしょうか。私はこれについて同意してもらおうとは思いません。私が同意してほしいのは、「共約不可能性」が無意味な概念ではないこと、中世哲学においては共約不可能性が基本的な概念として機能していた、ということです。

私の戦略は、〈見えるもの〉と〈見えざるもの〉が、中世哲学を観る場合の基本的な枠組みとなること、そしてその枠組みを支えるのが共約不可能性であること、この共約不可能性を中世哲学という森の中を歩く際の導きの糸にすることなのです。

そして、私が中世哲学に期待するのは、共約不可能性に関する分析なのです。神と被造物との絶対的懸隔において、媒介の論理を持つことができたのか、持ちえたとすると、その媒介はどのようなものだったのか、両義的なものとなったのではないか、もし媒介を持ち得なかったとすると、その事態をどのように分析したのか、以上の諸点に問題のテロスがあるのです。〈しじま〉が降りてきて、〈語り〉となる機序といっても同じでしょうか。「異界」や「異人」が担う問題群とも重なるのでしょうか。

個人的な感想めいてしまいますが、私にとって中世スコラ哲学とは共約不可能性の系譜なのです。共約不可能性を押し進めれば、分裂病に近づきます。うまく行っても、離人症です。そして中世の哲学者の記述は分裂病に酷似していると言われる場合もあります。しかし、中世の哲学者は精神の健全さを失っていないということがあります。哲学に興味があるということ自体、精神の異常さの発露であるというのであれば、それはそうかもしれませんが、中世哲学において精神の健全さは失われていないとすると、その健全さを支えていたのは何なのかということに一つの鍵があるように思えるのです。

(『普遍論争』より抜粋)

書籍データ

普遍論争 表紙
概要中世哲学は、なぜ、トリビアルな問題の集積と見られがちだったのか? この謎を解く鍵が「普遍論争」である。「はたして普遍は存在するのか?」というこの単純な問いをめぐる一見煩瑣な論理をていねいに読み解くことにより、本書は、中世哲学のもつ豊穣な可能性を描き出す。哲学入門としても最適の一冊。
タイトル普遍論争
サブタイトル近代の源流としての
著者名山内志朗
出版社平凡社
刊行日2008年1月10日
判型B6変
頁数480頁
定価本体価格1900円+税
ISBN978-4582766301