続・中学生からの大学講義2 歴史の読みかた 背表紙
社会の知恵

震災を『物語る』──柳田國男が伝えたかったこと

かつて経験したことのないような自然災害の続くいまの日本。私たちは過去に起きたことをどのように語り継ぎ、教訓として生かしていくべきなのか。民俗学の父が残した記録から考えます。

震災や津波を忘れてはならない歴史として継承していくことは、簡単なことではありません。東北地方はこれまで何度も津波に襲われていますが、その記憶をいかに継承したかについては、地域によって温度差がありました。それが今回の被害の大きさにつながったという側面もあります。柳田國男という民俗学者が残した文章をもとに、津波をめぐる記憶の継承について振り返りましょう。

柳田は明治時代初期に生まれ昭和時代半ば、87歳で亡くなるまで活躍した民俗学者です。東日本大震災では岩手県遠野市が緊急支援活動の拠点になりましたが、彼の著作ではその遠野の民話を集めた『遠野物語』が有名です。その中には津波で奥さんをさらわれた男の人のもとに、幽霊となって奥さんが現れる話が収められています。

国語教育の危機 背表紙
社会の知恵

大学入学共通テストが国語教育の危機をもたらす

2021年から新たに実施される「大学入学共通テスト」。マークシート式問題に加えて、記述式問題も導入され、従来の「大学センター試験」とは異なり、国語教育の根幹を揺さぶるような驚くべき内容の問題が出題される。

†センター試験の廃止!

大学入試の制度が大きく変わることはよく知られています。これまで、多くの国公立私立大学で導入されていた独立行政法人大学入試センターによる、いわゆる「センター試験」は二〇二〇年一月の実施が最後となり、以後、廃止と決まりました。翌年の二〇二一年には選抜制度を大幅に変更し、新しい試験形式になるのです。名づけて「大学入学共通テスト」と言われることになりました。

四苦八苦の哲学 背表紙
こころの知恵

ハイデガー『存在と時間』に頻出の常套句「つねにすでに」について考える

「生老病死」の「生」について考えた先に、ハイデガーの存在論につきあたった。「生まれる」とは、「ない」が「ある」に変わること。存在することの意味をハイデガーの常套句をカギに考える。

ハイデガー『存在と時間』はプラトンの『ソフィスト』からのギリシア語による引用からはじまる(以下、『存在と時間』からの引用は熊野純彦訳、岩波文庫版から)。

というのも、「存在する」という表現をつかう場合、じぶんたちがそもそもなにを意味しているのか、きみたちのほうがやはり、ずっとまえからよく知っているのはあきらかだからだ。私たちの側はどうかといえば、以前にはそれでも理解していると信じていたにもかかわらず、いまでは困惑してしまっている。((一)67頁)

戦争と新聞 背表紙
社会の知恵

昭和天皇に「戦争責任のこと」を言ったのは外国メディアで、日本ではない

昭和天皇が、戦争責任をいわれ辛いと漏らした……元侍従の日記をもとに共同通信が報道。しかし日本のメディアは戦争責任を追及したのだろうか。天皇の重体報道のとき、「崩御」の報道のとき、日本の新聞は?そして海外では?

戦後の報道で、昭和天皇の病状報道ほど内外落差の生じたものはないだろう。このことから日本の報道のあり方に、厳しい視線が投げかけられた。言論の自由を唱えるけれど、果たして本物なのか、と。「天皇重体」が発表された1988年9月19日以来、来る日も来る日も病状報道が新聞の一面トップ。そのことが結果的に国民の自粛ムードを煽り、運動会の花火打ち上げや、恒例の秋祭りを中止させた。「本日のお見舞い記帳○○人」の記事が有名人や庶民を記帳に駆り立てなかったとは言えまい。

報道する側からすれば、天皇のご容体が国民の最大関心事であるとの確信があったし、事実報道に徹しているとの自負もあった。しかし「右へならえ」が日本人の特徴であることを熟知するなら、その結果にも責任を持たねばならないだろう。

ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと 背表紙
社会の知恵

子育てを親だけでやらない社会がある

ジャレド・ダイアモンドは、『昨日までの世界』で、伝統的社会で見られる「アロペアレンティング」(代理養育)と呼ばれる子育て法に着目している。それは、「子育て」を表すparentingに「もうひとつの、代わりの」という意味のalloという接頭辞を付けて、「実の親ではない人物による養育」という意味合いを持つ用語である。生物学的な親以外の大人(たち)が、子どもたちの世話をして養育することが、アロペアレンティングである。

ダイアモンドによれば、広い意味でのアロペアレンティングは、ヨーロッパ世界でもかつてはおこなわれていた。しかし、アロペアレンティングとは、近代社会よりも伝統的社会でより重要な制度であったのだという。

「子どもにとってアロペアレントは物質面で重要な存在である。親以外の存在として、自分に食物や保護を提供してくれる存在だからである。世界各地の小規模社会に関する研究からも、アロペアレントの存在が子どもの生存率を高めることが示されている。そして、親以外の人々が子どもの養育に関与することは、子どもの心理面の発育のうえでも重要である。それらの人々は、子どもに、いろいろと人生に必要なことを教えてくれる存在でもあり、子どものとるべき行動のお手本となる存在だからである」[『昨日までの世界』325ページ]

昭和前期の青春 背表紙
社会の知恵

やはりおッそろしい国民だと思う

明治には明治と云う時代の色調がある。大正には大正と云う時代の色調がある。では、昭和はどういう色調の時代であるか。──後代は困るだろう。

同じ昭和という名で一括するのが奇怪なほど、それはまったく別の時代である。昭和二十年以前と、以後と。──それは将来必ず「昭和前期」「昭和後期」と名づけられるにちがいない。

「昭和前期」は、幕末の黒船以来約百年近い歴史の一つの結着であった。武力による侵略という欧米列強の物真似だが、あそこまでが一セットだ。

太平洋戦争前、アメリカと戦うことに抵抗した米内光政が、自分たちの抵抗はナイアガラ瀑布の上でボートを逆にこいでいるようなものであった、と後に述懐したが、それはただ開戦前の狂乱的雰囲気ばかりでなく、明治以来の歴史の流れに抵抗しようとするものであったからだ。

サバイバルボディー 背表紙
身体の知恵

短パン姿で雪山を登る! エクストリームな肉体改造。

私たちのヘッドランプの列がアフリカの夜の漆黒の闇を切り裂き、緩やかな砂利道を照らす。縦一列でさらに北へ、年間少なくとも八人の登山家の命を奪う火山をめざして移動する私たちの足元で、アルミ製のポールと登山靴がきしむような音を立てる。みんなの呼吸は荒くリズミカルで、まるで空気が抜かれていく部屋に閉じ込められているかのようだ。肺いっぱいに吸い込んだらそれが最後とでも言わんばかりの息遣いが聞こえる。闇の中で全員が集中し足並みをそろえてのろのろ前進していると、やがてオレンジ色の曙光が地平線をつかみ、夜の闇を引き剝がす。山頂の輪郭がくっきり浮かび上がってくる。最初は、針で刺したみたいに点々と星をちりばめた空に星のない暗い紫の空間があるだけだが、天が夜の抱擁を振りほどくにつれて、太陽が山頂の氷河を狼煙のように燃え立たせる。

キリマンジャロ。

アフリカの最高峰は太陽をたっぷり浴びたサバンナから、雲の上高くそびえている。そこでは時速一六〇キロを超える風が、アフリカ大陸でおそらく唯一残る太古の氷に吹きつける。こんなに近くで見るのは初めてで、興奮しているのか怖じ気づいているのか自分でもわからない。山はこれまで二〇時間、雲と山麓の丘陵地帯の陰になっていたが、巨大な火成岩の断崖絶壁はもはや脳裏に浮かぶイメージではなく、きわめて危険な現実の障害物だ。国立公園の入り口からしばらくは緩やかな上り坂が続くが、二五キロ地点で突然数キロの平坦地に変わり、盆地に円錐形の火山がそびえ、不毛な吹きさらしの荒れ地へと続いている。生命の気配はなく、月面を思わせるベースキャンプがあるだけだ。そのキャンプから私の人生最大の挑戦が始まる──自分を人間の忍耐の限界まで押しやるのだ。毎年何千人もの旅行者がこの山の頂をめざすが、多くの場合、楽なルートで最先端の装備を身に着けている。一方、私たちは高度順化せず、食事は抜きと言ってもいいくらいで、睡眠もほとんどとらず、何より防寒用の装備を持たずにスピード登頂の記録を更新することをめざしている。私が身に着けているものといったら登山靴、水着、ウールの帽子、それに緊急用の装備を少しと水を入れたバックパックだけだ。胸はむき出しで冷たい空気にさらされている。

英語教育幻想 背表紙
社会の知恵

その幻想が日本人の英語をダメにする

英語に限らず外国語を学ぶ際、だれから教わるのが最適なのか、と問われると、もちろんネイティブスピーカー(母語話者)と答える人が大半でしょう。英会話学校でも従来からネイティブスピーカーが数多く雇われていますし、小・中・高校では、ネイティブスピーカーのALT(外国語指導助手)が英語の授業の補助をするようになってきました。

しかし、世界英語やELFの概念が、正統なことばの形は何なのかという疑問を投げかけるように、だれが正統な英語の使用者なのか、という問いも熟考する必要があります。実際、ことばの基準と使用者の基準とは密接な関係にあります。そしてここでも言語イデオロギーの力が働いているのです。では、なぜネイティブスピーカーが好まれるのか考えながら、その問題点を洗い出していきます。

†ネイティブスピーカーは「生きた英語」を話す?

授業を英語で行うことを基本とすることを前提に、生きた英語に触れるとともに、実際に英語を活用するという観点から、ネイティブ・スピーカーの外国語講師や外国語指導助手(ALT)、地域人材の活用・指導力向上を推進することが必要である。

市場って何だろう 背表紙
社会の知恵

経済学は、つながりから社会を読み解く

◆人はひとりでは生きられない

人はひとりでは生きられない。例えば自分は一匹狼だと思っている人でも、あるいは引きこもりがちの人でも、何かを食べて生きている。その食べ物のほとんどは、いろいろな人が作り、運んだものだ。自給自足を標榜する人ですら、ひとりで家を建て、鍬や鋤を作った人はまずいないであろう。私たちは他の人と関わりあいながら生きているのである。

もちろん、そのなかには親と子どもの縁のように切っても切れない関わりあいもあるし、会社の同僚といったもう少し緩いものもあるであろう。いずれも顔の見えるつながりである。

逆に顔の見えないつながりもある。現代社会では、私たちは市場を通じて世界中の人とつながっている。あなたが買った靴に使われているゴムはインドネシアで採れたものかもしれない。そのゴムを採集した人はそれとは知らずにあなたとつながっているわけだ。そのゴムを使い作られた靴は米国でも売られ、大統領も履いているかもしれない。

ヨロコビ・ムカエル? 背表紙
こころの知恵

よそものを歓待する、「おもてなし」の意味。

『ヨロコビ・ムカエル?』を書いたあと、この難民問題に関して小さな──しかし、その問いかけの深さにおいてとても重要だと思える本──『どうなろうとも渡っていく』──に出会いました〔Georges Didi-Huberman, Niki Giannari, Passer, quoi qu’il en coûte, Paris: Minuit, 2017〕。これは、フランスの哲学者・美術史家のジョルジュ・ディディ=ユベルマンが、ニキ・ジャナリというテッサロニキで人道支援に携わるギリシャ人女性と連名で二〇一七年に刊行したものです。安全な暮らしを求めてヨーロッパをめざしながらもマケドニアとの国境が閉じられたためにギリシャのイドメニに足どめされた、シリアやクルドやアフガニスタンからの難民たちを撮ったドキュメンタリー映像作品『幽霊たちがヨーロッパに取り憑いている』(監督マリア・クルクタ、ニキ・ジャナリ、二〇一六年)を、とりわけ作品のなかで朗読されるニキ・ジャナリの詩を論じながら、ディディ=ユベルマンは難民に対するひとびとの否定的な態度の原因について興味深い考察を展開しています。

タイトルが示唆するように、このドキュメンタリー映画において、難民たちは幽霊になぞらえられています。では、難民と幽霊の共通点はなんなのでしょうか。