社会保障入門 背表紙
社会の知恵

広がる生活不安と社会保障のゆくえ

「食品や日用品、光熱費が上がり、さらに介護保険、医療保険の保険料も上がり、わが家では、新聞も止め、……医師から処方される薬も止めました。……年金引き下げは高齢者の生活を苦しめるだけです。取り消してください」

これは鹿児島市に住む七〇歳(当時)の女性が、年金減額処分の不服審査請求書に記した悲鳴にも近い訴えだ。「これ以上下げられると盆暮れのおつきあいもできません」と記した女性もいた(年金裁判違憲訴訟陳述集『とどろけ心の叫び』全日本年金者組合、二〇一六年一二月、一一二頁)。

二〇一三年一〇月から、特例水準(物価が下落した時期に特例として年金給付が据え置きとなっていた水準)の解消を名目に、老齢・障害・遺族年金が引き下げられ(一三年から一五年まで三年間で二・五%減額)、母子世帯などに支給される児童扶養手当や障害のある子どもへの手当なども減額された(同じく三年間で一・七%減額)。二〇一五年四月からは、年金給付額を物価・賃金の伸びより低く抑えるマクロ経済スライドがはじめて発動され、二・三%の物価上昇に対し年金上昇は〇・九%増(特例水準の解消分の〇・五%、マクロ経済スライドの調整率〇・九%が加わり計一・四%の引き下げ)に抑えられた。

現代の地政学 背表紙
社会の知恵

モンテッソーリ教育とファシズムを繋ぐある視点

ディスカヴァー・トゥエンティワンから出ているベストセラーで、慶應義塾大学准教授の中室牧子さんが書いた『「学力」の経済学』という本があります。この本では、子どもが何歳ぐらいのとき教育にお金をかけると最も投資効果が高いか、というような、教育を完全に投資として見た分析を行っています。投資のリターンはどの段階が一番大きいか。学童前保育などのプレスクール、保育園、幼稚園、小学校、中学校、中高一貫制学校、高校、大学、大学院、あるいは大学在学中の留学とかいろいろあるけれど、いつが一番投資効果が上がると思いますか?

そこはアメリカにおいてビッグデータの蓄積がなされていて、ごく幼いころにいい教育を受けさせると、将来すごく稼げる大人になるというデータがある。ということは大学院なんかに留学させるために一千万近く使うよりは、生後一〇カ月とか一歳ぐらいから、たとえばファミリアがやっているプレスクールみたいなところに一カ月二四万円で一年間預けたほうが、投資効果としては非常にいいというわけです。

台湾生まれ 日本語育ち 背表紙
社会の知恵

失われた母国語を求めて

自分が日本人ではないと意識するとき、わたしは 、自分にとってほとんど唯一の、自由自在に操れる日本語を、自分の「母国語」と言い切ることができない。逆に、こんなにも親密な関係を結び得ているのだから、日本語こそがわたしの「母国語」なのだ、とあえて言いたくなるときもある。

ふりかえってみると、自分の「母国語」とは何か、と考えだすようになったのは、わたしが本格的に小説家を志すようになった時期と重なっている。もっと言えば、当時のわたしは、小説を書くことを試みながら、日本の東京で育つことになった台湾人の自分が、複数の言語──日本語、中国語、台湾語──とどんなふうに関わってきたのか、ひたすら考察していたように思う。それはわたしが自分のニホンゴを模索する過程でもあった。

2014年3月初旬、育った国の言語で書いた本が、生まれた国で翻訳・刊行されることになった。

日本育ちの自分が日本語の書物を愛読するように、台湾出身の父や母が中国語の書物を読んできたことをわたしは知っている。中国語は、両親の「母国語」であり、わたし自身も台湾で育っていたのなら、今のわたしの中で日本語が占めている地位には、まちがいなく中国語があったはずだ。台湾人に読まれるために翻訳されたわたしの小説の読者の中には、台湾で育っていたわたしがいるかもしれない。半ば妄想に近いものだけれど、わたしは中国語を単なる「外国語」だとは到底思えないのだ。

古城秘話 背表紙
社会の知恵

名古屋城の金鯱に秘められた哀しみ

鯱(しゃち)というのは元来、イルカ科に属する海の動物で、広くインド洋を遊泳し、鯨でさえ襲うといわれているが、室町時代から城郭の屋上にとりつけられるようになったのは、それを象徴化した非現実的海魚である。

一見すると虎と魚の合成物のような奇怪な姿をしているが、いかにも獰猛勇壮な相貌を持っているため、敵を威圧する意味もあるが、もともとは、鯱は鯨のように水を噴くものとされたため、火災除けのまじないとして屋上におかれた。

姫路城などは、大天守だけで十一個の鯱が天に躍っているが、通常は天守の上層に一対、多くても二、三対おいてあるだけだ。それらの中で、特に名古屋城のそれが、他を圧して著名なのは、いうまでもなく、それが黄金の鯱だからである。

維新と敗戦 背表紙
社会の知恵

鎌倉時代に仏教が隆盛した理由

「先生、なぜ鎌倉時代に一気に仏教が隆盛したのですか」

親鸞・一遍上人・日蓮など誰でも知っている鎌倉仏教が、なぜあの時代に噴出したのか。教え子の高校生の単純な問いに網野は口籠った。この問いに挑むため、史料の森深く分け入り、史料に汗が滴り落ちるのもかまわず、ひたすら中世の人びとの声に耳を澄ました──すると中世には不思議な「空間」があって、河原や大木の下、あるいは神社の境内に市場がたつ。そこは品物はもちろん、売買する者の身分さえ問われず、すべては平等に交易される場所だった。

たとえば、神社のような神の支配する空間に注目しよう。そこで売買される物品は、銭を使用することで交換価値をもつ「商品」となる。しかも銭を使うことは、神を喜ばせる神聖で特別な行為でもあったのだ。こうした、日常生活のルールや秩序から外れた場所、それを「無縁」「楽」などと網野は呼んだ。すると縁切り寺などの仏閣も、同様の役割をもつことが分かってきた。そこへ逃げ込めば、日常のルール=夫婦の縁を切ることができる。これはまさしく非日常で「自由」な空間ではないか。

ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと 背表紙
こころの知恵

この地球には「反省しないで生きる人々」がいる

私自身が、ボルネオの狩猟採集民「プナン」のフィールドワークの初期段階で抱えていた違和感のひとつは、「プナンは日々を生きているだけで、反省のようなことをしない」というものだった。私が町で買って持ち込んだバイクを彼らに貸すと、タイヤをパンクさせても、何も言わずにそのまま返してくる。バイクのタイヤに空気を入れるポンプを貸すと、木材を運搬するトレーラーに轢かれてペチャンコになったそれを、何も言わずに返却してくる。こうした様々な体験がその違和感には含まれる。

プナンは、過失に対して謝罪もしなければ、反省もしない人たちだというのが、私の居心地の悪さに結びついていたのである。そして、この違和感は、プナンでのフィールドワークを始めてから十年を超えた今でも、大きな謎のままである。

酒を買う金を捻出するために他人の所有物(チェーンソーの刃、銃弾、現金など)を盗む癖のあるプナンの男は、妻や家族にその振る舞いを咎められると、どうやって金を工面したのか不明ながらそれまで以上に酒を買って、泥酔するようになった。咎め立てに対するあてつけのようにも思えたが、彼はまったく反省していないように見えた。やってはいけないことをしたという自覚があるのかどうかさえも、私には分からなかった。謝罪どころか、自分のしたことを反省する素振りそのものが見当たらなかった。

百貨店の展覧会 背表紙
社会の知恵

百貨店はなぜ展覧会を行うのか

百貨店の主体性

百貨店で開催される展覧会において、百貨店自らが主催者として名を連ねることは西武美術館の登場まではほとんどなかった。そのためか、百貨店の展覧会は、企画は新聞社で百貨店は会場を提供するだけの立場という受身的な図式で理解されることも多いようである。確かに新聞社が文字通り主催者として企画をたて展覧会を形にしていくことは数多かったが、一方で百貨店側からの企画やアイディアで始まって百貨店自らが実務まで取り仕切る場合もあり、また新聞社の主催が名義的な場合もありで、個々の展覧会に対する新聞社の関わり方、百貨店の関わり方は千差万別であった。ただ、いずれにしても展覧会を実施すること自体は百貨店の意志においてなされていて、新聞社主催の場合であっても百貨店の主体性は様々な場面で発揮されていた。では、百貨店はなぜこの利益を生まない事業に主体的に取り組んできたのであろうか。

現場が語る展覧会

78年、雑誌『宣伝会議』は〈百貨店復権の販促戦略〉という特集を組み、銀座松屋の小林敦美の〈文化催事の意味と在り方〉、ケーススタディとして新宿小田急の文化催事課長である小林久夫の〈企業イメージ形成に寄与した文化催事〉という一文を掲載している。それぞれ百貨店における文化催事の意義を述べていて、それを簡略に紹介する。

樹海考 背表紙
社会の知恵

樹海には非日常が潜む──徘徊する老姉妹編

・謎の宗教施設の取材に向かうと……

とあるサブカル系の雑誌から取材の依頼が来た。

「樹海の中にあるナゾの新興宗教を取材して欲しい」というものだった。

担当の女性編集者と車で現場に向かった。そのナゾの新興宗教施設については次の項で書くとして、どこにあるのか大体の位置しか分からずに現場に向かった。

精進湖の近くにあるレストラン「ニューあかいけ」で聞きこみをする。ここは樹海に来た時にはちょくちょく寄るレストランだ。「鹿カレー」「富士山ハンバーグ」などのオリジナルメニューがある。お土産屋さん、ヘラブナ釣りの出船、宿泊施設まである。

小津映画 粋な日本語 背表紙
社会の知恵

ついこの間まであった礼儀のかたち

小津映画で、敬語がその場にふさわしい敬意を運ぶのは、自分の立場や相手との関係、場の違いなどに応じて、ことばが適切に使い分けられているからである。これは敬語だけの問題ではない。たとえば、『東京物語』で、母親役の東山千栄子が訛ったアクセントや独特のイントネーションで口にする「ありがと」「さよなら」といったことばの響きは、映画を見終わったあとまで、しばらく耳に残る。印象に残るのはいかにも心のこもった言い方に響くからだろう。が、こういう美しい日本語も、相手の顔をまともに見ながらあんなふうに口にするのは、今はなにか照れくさい。

これはむろん、『東京物語』だけの特殊事情というわけではないし、純粋にことばだけの問題でもない。たとえば、『戸田家の兄妹』という戦前の作品でも、三女の節子は母に、「ね、お母さま、今日ね、銀座でとてもおいしそうな佃煮があって、よっぽど、昌兄さまのとこへお送りしようかと思ったんだけど、やめちゃったの。お母さまにもっと頂いとけばよかったと思って」と言う。親子の間の対話らしく親しい調子を保ちながら、母親を「お母さま」と呼び、兄のことも「兄さま」と呼ぶなど、いずれも「さん」でなく「様」待遇とし、「もらう」でなく「頂く」、兄の所へも「お送りする」と謙譲語を用いるほどの表現レベルだ。ここまではことばの問題だが、何を頂くのかという対象について口に出さない点に注目したい。

昭和ノスタルジー解体 背表紙
社会の知恵

昭和の懐かしさはなぜ世代を超えて受け入れられたのか?

このように、懐かし需要はビジネスチャンスとしてさまざまな業界で取り入れられたわけだが、商業施設や店舗がコンセプトを昭和30年代に寄せ気味だったのに対して、復刻商品やおまけアイテムは昭和40年代や50年代のものを多く含んでいたことが分かる。

この時期のブームは、昭和30年代をテーマにした台場一丁目商店街が強い存在感を放っていたのと、ブームの到達点である「ALWAYS 三丁目の夕日」の舞台が昭和30年代だったことから、全体の印象としては昭和30年代が中心だったように見える。しかし、じっさいは多様なものを含んでいた。何年代と限定せず、たんに「昭和」とくくられたケースも90年代と比べて明らかに増えている。昭和イメージはディケイドをともなわない(ともなうとしても形式的な)ざっくりとしたかたまりになって、時代を超えようとしていた。

さらに、昭和イメージは世代をも超え始めていた。本来、実体験を持つ世代だけが特定の時代のノスタルジーを享受でき、実体験のない下の世代はレトロかアナクロでしかその時代にアプローチできなかった。しかしゼロ年代に入ると、すべての世代が懐かしいという感情を共有できるようになっていく。